2度目のコーヒーを

 清潔さには煩そうな主に反して、窓の隅は指紋や湿気で汚れていた。黒ずんだ窓枠の外にはしかし、ここより遥かに汚れた家々が、所狭しと肩を並べている。
 遠い東の空は淡い菫色を帯びていた。やがて空には黄金の輝きが満ち、夜明けを衆愚の街に告げるだろう。名物の重たい雲が立ち込めるまでの、ほんの数分ほどの煌き。それを知る者は多くない。
「いつもそこから、夜明けの空を見ている」
 湯気を上げている薬缶を手に、ハーヴェイ・デントはそう言った。
「立地条件は悪いし夜景も見られないが、徹夜明けには最高だよ。ゴッサムで美しい空を見られる部屋は珍しい。そうだろう?」
「……ああ」
 ゆっくりと頷けば、誇らしげにハーヴェイは微笑む。差し込む薄明かりを受けた横顔は、アポロと呼ばれるに相応しい輝きで満ちていた。
「でも、君とコーヒーを飲み交わせるとは思わなかった」
 白と黒、色違いのマグカップには、既にインスタントコーヒーの粉末が入っていた。ハーヴェイはそこに熱湯を注いだ。たちまち鮮やかな香りが周囲に広がっていく。
「議員の告発は上手くいきそうだ。君の説得した証人の発言でね」
「また妨害が入るかもしれない。気を付けてくれ」
「大丈夫だよ。ジンボとその仲間達が四六時中見張ってくれている」
 今はちょっと出て貰ったけれど、と言ってハーヴェイは薬缶片手に肩を竦める。彼はそのまま流しへと向かった。戻って来た時に薬缶はなく、代わりに砂糖とクリームの瓶が彼の手に収まっていた。
「何杯入れる?」
「…君の好みに任せよう」
「用心深い男だな」
 ハーヴェイはどちらの瓶も、カップの横に置いた。だがカップを渡す素振りも見せず、ただこちらを見つめている。
「協力関係にあるってのに、素顔も見せようとしない」
「――君を信頼していない、という訳では」
「分かっている、分かっているよバッツ」
 何も持たない手が揺れる。その動きが不意に止まった。
「ただ少し、淋しいだけさ」
「ハーヴェイ……?」
 どこか遠い所か、或いは自分の内側を見ているような瞳。訳もなく心が騒いだ。
 彼は、ハーヴェイは、淋しいなどと言うような男だったろうか?
「気にしないで、忘れてくれ。さあどうぞ」
 ようやくハーヴェイがカップを手に取る。差し出された白いカップをしかし、受け取る事は出来なかった。
 強いノックが扉を叩く。緊迫した表情でハーヴェイはカップを下ろし、ドアに向かって誰何した。
「余り叩くと壊れるぞ。弁償はそちら持ちで頼むからな」
「ハーヴェイ、私だ!」
「ジンボ?」
 躊躇い無くハーヴェイはドアを開いた。そこへぶつかるようにジム・ゴードンが飛び出して来る。彼はハーヴェイでなく、視線をこちらに向けた。
「バットマン、3ブロック先で殺人事件が起こった」
「何時だ?」
「おそらく10分ほど前。死因は例の笑気ガスに間違いない」
「すぐに追う。ここ一帯に警戒と包囲網を」
 ケープを鳴らして踵を返す。窓を開き向かいのアパートにワイヤーを飛ばしてから、ハーヴェイに顔を向けた。
「すまないが、コーヒーはまた」
「ああ。それまでに本物の豆を仕入れておくよ」
 片目を瞑ったハーヴェイに苦笑して、窓の外へと身を躍らせた。



 だが、しかし、2度目の機会は――



「ブルース?」
 肩に掛かった手の感触と声。ブルースは何より早く、手を跳ね除けるべく腕を払った。小さな悲鳴が聞こえて初めて目を開く。次に、見開く。
「…お前か」
「誰だと思ったんだい?」
 白いシャツにジーンズ姿のクラークが、ブルースの前に立っていた。癖の強い黒髪は撫で付けられず放ったらかしで、緩やかに波打つ前髪が額に下りて来ている。いつものケントでもなく、かと言って鋼鉄の男の姿でもない、寛いだ格好。
――鋼鉄の男。
 そう、彼の異名は鋼鉄の男だ。アポロではない。そしてここはメトロポリスだ。ゴッサムではない。
「今、何時だ?」
「もう10時近いよ。ブランチの用意は出来ている」
「…もっと早くに起こしてくれて構わなかった」
「熟睡していたから可哀想でね」
 昨日は色々あったし、と付け足してクラークは笑う。そこに込められた二重の意味に気付き、ブルースは眉を寄せた。
 メトロポリスがある都市と姉妹提携を結んだ記念イベント。そのメインである双子像の落成式の為に、バットマンは駆け付けたのだ。十中八九、ゴッサムのあのヴィランが手を伸ばすだろうと考えて。
 予想は大当たりだった。事前にクラークと計画を練っていた分、スムーズに彼らを捕獲する事が出来たのだ。そしてそのままブルースは帰らず、クラークのこの部屋に泊まった。
 結局、本格的に眠りに就いたのは夜明け前で――室内にはカーテン越しの光が、淡く差し込んでいた。
――その所為だな。
 あんなに昔の夢を見たのは、とブルースは思った。俯いたままのブルースが、怒っているとでも思ったのだろうか。クラークは慌てるように顔をドアへと振り向けた。
「ああ、そうそう、コーヒーも淹れたんだよ」
「…コーヒーを?」
「うん、インスタントで悪いけど。冷めない内に持って来る」
 そう言って素早くクラークは部屋を立ち去る。ブルースの肌が粟立ったのは、外気に晒されている事ばかりが原因ではない。
 戻って来たクラークの手には、白いマグカップがあった。
「はい、どうぞ」
 ベッドにいると言うのに手渡されたのは、ブルースが立てないと思っているからだろうか。眉間の皺を更に深めながら、ブルースは茶色い液体にじっと視線を注いでいた。
「ブルース?」
「…夢を見ていたんだ」
 カップをしっかり持ったまま、ブルースは口を開いた。
「もうかなり昔の事が、そのまま夢に出て来た。…事件を解決した後、私がハーヴェイのオフィスに招かれた時の夢だ」
 ハーヴェイの名前に、クラークがぴくりと動いたのをブルースは感じた。彼の事はクラークも知っている。数々の新聞に書き立てられたのだ、ゴッサムのアポロの、凄惨な行く末は。
「夜明け前だった。彼は笑いながら私にコーヒーを淹れてくれた。だが私が素顔を見せようとしない事に、淋しいと言っていた」
 ブルースはそっとカップに口を付け、温かい液体を流し込んだ。口の中に広がるのは苦味のみではない。砂糖とミルクがたっぷり入っているようだ。
 ハーヴェイは2つとも入れようとしなかった。
「私は結局、彼のコーヒーを飲めなかった。また機会があればと言って別れて――それきり、彼とコーヒーを飲む機会は、無くなった」
 クラークが淹れたコーヒーの甘さとまろやかさが、言葉を紡ぐ口を助けた。
「また、そんな日が来るよ」
 ブルースは顔を上げた。小さく頷いて、クラークが続ける。
「そんな機会が来る。いつか、きっと」
「……そうだな」
 そっとマグカップに視線を落とすと、ブルースは再びそれに唇を付けた。
 味は全く違うだろうに、漂う匂いは、あの日のコーヒーと良く似ていた。

夜明けのコーヒーを飲むハーヴェイと蝙蝠、という光景が書きたかったのです。
ようやく出来た……!
密かに好きです、ハーヴェイ・デント。あの危うさが何とも言えません。
イヤーワンで蝙蝠をゴードンさんから匿う姿は男前過ぎる。
アニメ版の「ブルースとはお友達」設定も素晴らしい。
いつかアニメ版設定でも書いてみたい人物です。

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