掛けていたシーツが僅かに揺れた。
「……?」
無論、クラークはその程度で跳ね起きるような、鋭敏な感覚は持っていない。だが今宵の彼を目覚めさせた原因はシーツでは無かった。
横に眠っている筈の、針が床に落ちる音でも反応する男。彼の小さく小さく咳き込む声が聞こえたのである。
「すまない、起こしたか」
クラークが声を掛けるより早く、ブルースはその覚醒を悟っていたようである。流石と感嘆を抱きながらも、クラークはゆっくりと腕を伸ばし、こちら側を向く背中を撫でた。
「気にしないでくれ。…風邪かい?」
夜着1枚を隔てて手に伝わるのは、しなやかな筋肉と低めの体温だ。怪我は無い。熱も無い。尤も前者は先程、しっかりと確かめてはあるのだが。
「――違う。会議室の冷房が強烈でな」
主催者も参加者もクールビズがお嫌いらしい、と言ってブルースは体をこちらに向ける。ベッドが合わせて重たく軋んだ。彼がこちらを向いた事で、1度開かれたクラークの眉は、しかし再び曇り始める。
「気を付けないと。今年の風邪は喉から来るそうだよ?」
引っ切り無しに咳き込んでいたペリーの姿が、クラークの脳裏に甦る。明日も会議の入っているブルースである。くれぐれも用心させねばなるまい。
「そこまで柔では無いさ」
「分かっているよ。でも体調管理はくれぐれも厳重に」
「安心しろクラーク。…では、お休み」
クラークが言い終わるより先に、ブルースはシーツの海へと潜り込んでしまう。たちまち規則正しい寝息が漏れ聞こえ出した。
――本当に分かっているのかな。
己が限界を熟知しながら、そこへの挑戦をひっきりなしに行うのがブルースだ。倒れるぎりぎりまで無茶し兼ねないではないか。
枕に流れる指通りの良い黒髪を撫ぜてから、クラークは溜息を押し殺し、そっと目を閉じた。
ブルースを会議が行われるビルまで運んでから、クラークはデイリープラネット社への道のりを歩いていた。
まだ朝だと言うのに、太陽は容赦なくメトロポリス一面に降り注いでいる。だがクラークの額に汗の滲む事は無い。時折ハンカチを取り出し、顔を拭うのはカモフラージュだ。
助けを求める声は、或いは声すら出せない者はいまいかと、暑そうな様子を取り繕いながらクラークは歩き続ける。
そうして絶えず動かしていた視界の中に、小さなコンビニの看板が現れた。いつも通り過ぎている場所だが、今日に限ってクラークの足はそこで止まる。
――のど飴なんてどうだろう。
まだ風邪気味のペリーと、今日また冷房に晒されているだろうブルースの為に。腕時計と入り口を何度か見比べてから、クラークは小さな店内へと足を向けた。
「おはようございます」
「おはようクラーク」
「あ、おはようございますケントさん!」
いつもならここで、「ケント、昨日の記事だがな!」と轟く大声が欠けている。代わりに響くのは胸を掻き毟るような咳だ。ペリーの丸まった背中を、ロイスが慌てて擦り始める。
「ちょっとペリー、大丈夫?昨日より酷くなってるわよ」
「チーフ、だから煙草を解禁するのはまだ早いって言ったのに」
「喧し……い!」
勢い良く振り回される腕だけは、いつもと変わりが無い。クラークは苦笑して、手の中にある小さなビニール袋を開いた。
「のど飴があるんですが、お一つどうです?」
「……甘そうだな」
淡い黄色とオレンジ色の包みに、ペリーは僅かに顔を顰める。が、背に腹は変えられぬと思ったのだろう。クラークの手から2粒の飴を受け取ると、一気に口の中に放り込んでしまった。
「珍しいわね。あんたが甘い物?」
「う、うん。最近ちょっと冷房が喉に来てね」
斜め横から見上げて来るロイスに、クラークはそう言い訳する。
「確かに寒いですもんねここ!…あ、1ついいですか?」
「いいよ。どうぞジミー、……ロイスも」
「あら、ありがとう!」
たっぷり入った袋を傾け、2人の手の上に落としていく。たちまち明るい色彩が2人の手に咲いた。3人の姿を苦々しそうに見ていたペリーが、ようやく声を張り上げる。
「お前ら早く仕事に戻れ!今日はまだ決まっていない記事があるんだぞ!!」
「はい、チーフ!」
「チーフと呼ぶな!!」
いつも通りのペリーとジミーのやり取りに、ロイスとクラークは思わず顔を見合わせて笑った。
――結構減ったな。
他の冷房に悩める同僚達へ配った所為か、袋の中身は半分ほどになってしまっている。それをケープのポケットにしっかり仕舞うと、クラークは鋼鉄の男として空に飛び上がった。
水難事故や熱中症で助けを呼んでいた人々を、助けては近くの病院へ運ぶ。とりわけ暑さの厳しい今日は、倒れた人が随分と多かった。最後に家で倒れた老人を病院へ運び入れると、横にいた女医が笑い掛けて来た。
「今日は大変だったでしょう、スーパーマン?」
「ええ。だけど楽な日なんてありませんよ。貴女と同じように」
そうかもね、と女医は頷く。その声が僅かながら掠れている事にクラークは気付いた。注意して見れば、病院内はともかく、医局の方は随分と乾燥しているようである。
クラークはケープのポケットに手をやった。
「ドクター、宜しければ手を出して頂けませんか?」
――随分と減ったな。
通りがかったナース達にも渡していったら、袋はもうぺしゃんこだ。それを苦も無く丸めて、クラークはもう1度ケープのポケットに入れる。それから今度は宇宙に向けて、地面を蹴った。
メトロポリスはもう夜色に染まり始めている。纏わり付く湿気を切り裂くように、一条の光が地球の外に飛び出した。
「よっ、スーパーマン!久し振りじゃねえ?」
司令室の扉を潜るなり、陽気なスピードスターが出迎えてくれる。
「フラッシュ。相変わらず元気そうだな」
「いやー、それがそうでも無いんだよな」
紅色の手袋を口元に当てて、げほん、とフラッシュは嫌な咳を吐き出した。
「タワーの冷房、調整する所がイカレちまってさ。もう寒いの何のって!オレとランタンとホークガールで直したんだけど、全員もう喉、ガラッガラ」
「…のど飴があるから、他の2人も呼んでくれ」
「マジで?!ありがとう!早速呼んで来る!」
良く聞けば確かに砂を飲んだような声で、フラッシュが応じる。たちまち紅色の光が閃いた。
クラークはそっとケープから袋を取り出す。残り4粒。3つを彼らに渡せば1つしか残らない。が、それでもブルースには――
「スーパーマン、早いな」
「ジョン」
音も気配も無いまま、ジョン=ジョーンズがクラークの後ろから入って来る。同じシフトに当たっている彼は、のど飴の袋を見て首を傾げた。
「随分と色鮮やかだが、薬物なのか」
「……食品の一種だよ。オレオとは違う味だが、試してみてくれ」
翠緑色の手の上に、淡い黄色とオレンジの包みが乗った。
――残ってないかな。
そんな訳は無いと知りつつも、クラークは部屋に戻ってから1人ひっそり、袋を振ったり逆さまにしてみたりと粘った。だがビニールの袋は、クラークの手に合わせてぺらぺら物悲しく揺れるのみだ。
――味も選んだのに。
最も甘そうな、『舌にも優しい蜂蜜入り(オレンジ味)』。きっとブルースも気に入ってくれると思ったのだが、口に入る前に無くなってしまったのでは仕方ない。肩を落として、クラークは袋をゴミ箱に捨てた。なるべくブルースの目に触れないよう、上からたっぷり他のゴミを掛けて。
丁度その時、玄関のチャイムが鳴る。ブルースだ。
「はいはいはーい」
確かめもせずにクラークは玄関に駆け寄り、ドアを開ける。予想通りブルースが立っていた。目元の影が色濃いのは疲れているからだろう。早々に部屋へと導き入れた。
「お帰り。お疲れ様」
「……ああ」
ただいま、と言おうとしないのは常の事だ。クラークは気にせず笑い掛けようとして、しかし唇を結んだ。
――良い匂いがする。
ブルースの口元から、柑橘系の甘い香りがふわふわと漂っている。会議と言っていたが、どこかで女性と会って来たのではないだろうか。思わずクラークは身構える。
「な、何だか良い香りがするね」
「ああ、矢張り分かるか」
さらりと応じたブルースが、鞄の中に手を入れる。上質の黒革から取り出されたのは、小振りなビニールの袋だ。
「…それ」
「のど飴だ。帰りに買って来た」
ほら、と促されるままにクラークは手を出す。袋から零れ出た小さな粒は、淡い黄色とオレンジ色の紙に包まれていた。
「お前には不必要か」
「いや、ううん!そんな事無いよ!」
掌から落ちないよう握り締めながら、クラークは首を横に振る。勝手に顔が綻んでいくのを止められない。
――僕からは渡せなかったけど。
考えた事は一緒で、買った物も同じで。
それだけで十二分に幸せだ。
「…上機嫌だな」
「お蔭様でね」
怪訝そうな顔で見つめて来るブルースに笑ってから、クラークは飴玉を口の中に放り込んだ。
――感付かれていないらしい。
足取り軽くキッチンに向かうクラークの背中を、ソファの背もたれ越しに見ながら、ブルースはそっと喉を押さえる。
冷房で弱っているのも勿論あるが、昨夜の咳はそればかりが原因では無い。今宵も恐らくその原因から逃れられまいと思うと、勝手に頬が熱を帯びて来る。ブルースはベッドの上にいる折のように、きつく唇を噛み締めた。
――だが、控えろと言うのも問題がある。
嬌声はおろか、息さえも押し殺すブルースが悪いのだと、反論されるのが関の山だ。むしろ墓穴を掘る可能性すらある。否、クラークならば、しおらしく反省する事もあろう。しかしそうなればそうなったで、ブルースには余り面白くない。強欲に過ぎるかと思いながら、頬の熱を引かせようと軽く首を振った。
「ブルース?お茶とコーヒーと牛乳と、どれが良い?」
キッチンから顔を出すクラークに振り向いた時は、もうブルースはいつも通りの表情に戻っている。
「コーヒーを頼む」
「喉に良くないよ」
「なら選択肢に入れるな」
はいはい、と笑って引っ込んだ元凶に知られぬよう、ブルースは小さくオレンジ味の溜息を吐き出した。