「暑いな」
「うん、暑いな」
「クーラーは?」
「うんともすんとも言わないよ。アルフレッドが帰るまで待つしかないな」
「じゃあクラークだな。2階にいるんだろ?」
「残念だけどもういない。さっきブルースと一緒にどっか行ったよ」
ティムが言い終わるのも待たず、ディックはべったりとソファに倒れこんだ。その動きはティムの手元にあるアイスクリームさながら、固体とは程遠い様であった。
「何だよ何だよデートかよ!こんな真夏日にデートするなんて馬鹿か?あの2人は馬鹿なのか?!」
「落ち着きなよディック。ほら、最後の一口あげるから」
「イカ墨味だろそれ……」
「いや、それが意外といける」
「…遠慮しとく」
ぱったりと動かなくなったディックを横目に、ティムは最後のイカ墨アイスを口中に放り込む。空いた容器はディックが平らげた、チョコミント味の空容器横に置いた。
普段は寒いほど涼しいウェイン邸も、今年の猛暑には兜を脱いだようだ。幾ら窓を開けても、ちっとも風が来ない。そしてクーラーが機嫌を損ねたこんな時に限って、ゴッサムは50年に1度と称したくなるような晴天だった。
「夏のデートって言ったらさ」
片頬をソファに押し付けたまま、寝転がっているディックが呻く。常ならばもっとしゃっきりしているが、暑さで弱った頭は、起き上がって座れと体に命令するのも辛いらしい。
「やっぱり海だよな」
「定番だね」
クラークが思い付きそうな程、とは流石にティムも口に出来ない。
「いいよなブルースはさ。クラークにお願いしたら、カテガッドでもエーレスンドでもジブラルタルでもすぐ行けるじゃないか」
「何で例が海峡?」
「男のロマンなんだよ、ロマン。ティミーも大人になれば分かるさ。あー、海行きたいなー、ビキニの女の子がいればそれだけで夏も許せるのになー。クラークの足にロープ引っ掛けて、連れてって貰えば良かったなー」
「いや、そもそもあの2人で海には行かないんじゃない?ブルースが絶対に嫌がるって」
足をばたつかせていたディックは、しかしティムの声に顔を上げようともしなかった。
「じゃあ俺とクラークだけで行こうっと」
「殴られるだろ」
――主に後者が、ブルースに、クリプトナイトリング付きで。
「大丈夫!クラークなら俺やブルースと違って、女の子引っ掛けたりしないから!」
「そう言う問題じゃなくてさ」
「平気、平気」
ひらひらと白い手が振られる。分かっていないのではなくて、全て分かっていてクラークに嫌がらせしているのか、と疑わしくなるほど気楽な動きだ。
「あ、そうか、別に海じゃなくてもいいんだよな。クラークなら今が冬の国にも飛んで行けるし?」
「そうだな。うん、基地が北極だからね」
おざなりに相槌を打ち続けていたティムは、ふと窓の外に視線をやった。その途端、答えが喉の奥で止まる。
「知ってるか?あそこ、中は温かくて過ごし易いんだぞ!流石クリプトンの技術は一味違う……おいティミーボーイ?話聞いているのか?」
「雪」
呟いた単語に、え?とディックが首を傾げるのが見えた。
「ディック、外。……雪が降ってる」
重く圧し掛かる曇天。項垂れた植物。そして霧よりもなお密やかに、視界をちらつく白いもの。
窓の外に出現した冬景色に、ティムは口を噤む事しか出来なかった。だがしかし、居間に広がる静寂は、30秒と続かない。
「……神様ありがとう!」
ソファから飛び上がったディックはそう叫ぶと、だっと廊下に駆け出して行った。
「あ、ちょっと、ディック!待てよ!」
「異常気象が何だー!エルニーニョ最高!!」
「アメリカ東部でエルニーニョ現象は起こらないから!肝心の定義も穴だらけじゃないか!」
日頃鍛えられている2人の健脚は、あっと言う間にウェイン邸の玄関を越えた。その直後、ディックの夏用スニーカーに踏まれた雪が、さくりと軽やかな音を立てる。
「……!」
一瞬遅れて襲い掛かって来るのは、紛れも無い冬の乾いた風だ。そして風に乗って舞い散り、2人の髪に白い斑点を散らす大粒の雪。嘆声と共に口から出て行く純白の吐息。
脚と言わず頭と言わず、冷気が全身を覆い始める。粟立ち始めた腕を擦りながら、ティムは灰色の曇天を呆然と見上げた。
――冬だ。
ディックはと見やれば、こちらも余りの様子に気を呑まれたらしく、唇を僅かに開いて空を仰いでいる。
「…街中もこんな感じなのかな」
「さあ……」
まさかウェイン邸が建つ丘ばかりが、異常気象に包まれている訳でもあるまい。灰色の憂鬱げな雲は、遥か彼方の街まで広がっている。
「エルニーニョの神様っているんだなあ」
「ディック、こっちにエルニーニョ現象は発生しないから」
「いや、神様が俺達を哀れんで、特別にやって来てくれたに違いない。そう信じる!」
空へとガッツポーズを取った先輩の頭に、ティムは地面から掬った雪を投げかけた。
「うわ冷たっ!」
「ちょっとは頭を冷やした方が良いよ。どう考えてもこれは異常――」
「お返しだ!」
腕を組み掛けたティムは、顔面目掛けて飛んで来た雪玉を間一髪で避けた。
「ディック!……この!」
「あ、またやりやがったな先輩に!これでも食らえ!」
玄関先の雪を掬っては丸め、投げ合いながら、2人は走り回った。動くと徐々に体が温まり、寒さが緩和される。雪で濡れた顔を真っ赤に染めて、束の間、ティムもディックも原因の考察を頭から消し去った。
「本当に冬って良いもんだな、ティム!」
「そうだね!」
気付けば着ているタンクトップまでぐっしょり濡れてしまったが、妙な満足感を覚えて2人は言い合う。次は顔面スタンプを作ろうと、ディックが雪にダイブし掛けた所で、ティムの耳に屋敷の電話音が届いた。
「ディック、何か鳴ってるよ?」
「うわ、やばい」
何時の間にか足首を越えるまで積もっていた雪を、周囲に飛ばしながら邸内に入る。居間へと入っても電話音はまだ途切れていない。ほっとした様子でディックが受話器を取った。
「お待たせしまして申し訳……」
『ディック!』
横にいたティムにもしっかり届く大声だった。思わずディックが片耳を押さえる。
「ぶ、ブルース?何だよいきなり」
『お前こそ何をしているんだ?!』
「何をって」
一瞬ティムに目をやってから、ディックは答えた。
「雪合戦」
『……!…もう良い、テレビを点けてみろ』
ブルースの声に応じてティムはテレビを点けにまた走った。電源を入れた途端、ゴッサムの風景が大画面に映し出される。
吹雪と氷柱に覆われた街中、重たげな銃を持って立つ、白い機械で身を守った大男も。
「…えーっと、ブルース、まさかこれって」
『決まっているだろう。Mrフリーズがアーカムを脱走したんだ』
――だからか。
季節と真逆をいく大雪も、寒さも、全てエルニーニョの神様の行いではなかったのだ。
『分かったなら早く準備して来い!ティムもそこにいるんだろうな?!』
「も、勿論だよ!すぐ行く!」
受話器を置いたディックが、悲しげな顔で振り返る。ティムは肩を竦め、ケイブへ繋がる道へと顎をしゃくった。
「行こうか」
「ああ……」
肩を落としたディックが、さよなら俺のエルニーニョ、と呟いたのを訂正する気もないまま、ティムはケイブへ向けて何度目か分からぬ疾走を始めた。