HAIR TRAP

 午前3時の寝室は、どこもかしこも闇色に閉ざされている。
「……」
 身に染み付いた熟睡の習慣は、自邸と異なるベッドに戸惑ってしまったのだろうか。まだまだ修行が足りない。そんな事を考えながら、ブルースは黙って本物の蝙蝠のように、夜の中に目を光らせていた。
 黙って。そう、先程から寝室に響く規則正しい寝息は、ブルースのものではない。その眼前で眠る寝室の主が発しているのだ。
 彼と異なり夜目が利かないブルースではあるが、数センチ先の寝顔ならば判別出来る。すっかり冴えてしまった目を瞑る事なく、ブルースは彼に向けて視線を注いでいた。
 閉じられている所為か、いつもより長く見える睫毛。通った鼻梁から視点を下に動かしていけば、薄っすらと開かれた唇に辿り着く。どこか微笑んで見えるそれに、ブルースは僅かに眉を寄せる。
――太平楽な寝顔だ。
 奇襲や突発事態を恐れて、神経を張り詰めさせている自分とは違うのだ。のんびりと睡眠を楽しむような顔付きが、ブルースには何となく気に食わない。八つ当たりだと分かっていても、少しだけ彼の安眠を邪魔してやりたくなる。
 何か無いか、とブルースは視線を四方八方へとさ迷わせる。稚気と悪巧みに満ちた瞳がその時、彼の額に垂れた前髪を捉えた。
――これだ。
 愚者の街に住まうヴィランもかくや、と言う微笑を浮かべ、ブルースはそっと手を伸ばす。衣擦れの音は僅かだ。眠る男も微動だにしない。
 長い人差し指の先が、緩やかな癖の付いた前髪に触れる。勢い付いて手の中に収めても、髪の持ち主はうんともすんとも呻かない。再び唇の端を歪めると、ブルースは髪を弄び始めた。
 ヒーロー名を象徴するかのようにウェーブしているそこを、軽くつつく。が、髪は何度つついてもすぐ元の癖を取り戻した。1本だけでもトン単位の重さに耐えられる、と言う話は伊達では無いらしい。その割には随分と柔らかい一房を、ならばとブルースは指でくるくる巻いてみた。それから、指をするりと離す。
 しかしS型以上に癖が強くなる事は無い。ふむ、とさながら学者のように、ブルースはしばし考えを巡らせる。
――他の部分はどうだ?
 常は撫で付けられている髪。しかし鋼鉄の男が力任せにセットしているそこは、ブルースの指にはあっさり陥落し、くしゃくしゃの様相を見せたものだ。試してみる価値はあるだろう。
 注意深く、指先を額から耳の後ろへと持って行く。その拍子に寝間着の袖口が頬にでも触れたのか、彼は小さく呻いた。ブルースは思わず手を離す。
 だがそれ以上の動きは起こらない。安心してブルースは再度、緩く波打つ髪へと触れた。
 一房を掬い取り、前髪にしたようにくるくると指へ巻き付ける。ゆっくり指を離すと、そこは遺伝子さながらにカールしたまま、ぴよんと飛び出した。
――良し!
 思わず拳を握り締めて、ブルースは更に作業を続行した。
 指で巻く度に、髪があらぬ形のままあらぬ方向へと飛び出していく。まるで小さなバネを大量に付着させたようだ。次第に込み上げていく笑いを堪えながら、元来が凝り性のブルースは、いつの間にか目的を忘れて行為に没頭していった。
 数分後、出来上がった前衛的に過ぎる髪型を見つめて、ブルースは思わず満足の吐息を洩らした。さてこれで寝られるぞと、手をシーツの中に戻し掛けて、止まる。
「……」
「……」
 真夜中にも関わらず、真昼間の空色を宿した瞳が、じっとブルースを見つめていた。
「……」
――いつから起きていたんだ!
 無言で見つめ合いながらも、ブルースは内心で頭を抱えてのた打ち回る。静寂の時間は、髪型が完了するまでの時間よりも長い間に感じられた。
 ふと、クラークの腕が伸び、ブルースの背中に回る。ブルースが何をと問うより早く、彼は唇を開いた。
「ごめん」
「は?」
 訝しげな声と同時に、髪や額に落とされる唇の感触。クラークが少し身を迫り上げた所為で、その首筋近くに顔を埋める事となったブルースは、なすがままにされていた。さっぱり現状が掴めない。
「僕、朝早いから、今日もう1回するのはちょっと無理ー……」
 その語尾はむにゃむにゃ、と夜に溶けた。
 朝が早いから。
 今日もう1回するのは無理。
 ベッドでもう1回と言えば当然あちらの事で、それを言い出すのはつまり。
――私が誘ったとでも?
 理解すると同時に、ブルースの顔にかっと血が上る。思わず顔を仰向けた。
「クラーク!お前は何を勘違いして……!」
「んー、ごめん……明日、ちゃんと、君の家に行くからー……」
 待っていて、と今度の語尾は明瞭に聞こえた。そして再び抗議する間もなく、ブルースの後頭部を撫でる大きな手。寝惚け半分の為か普段より熱いそれは、問答無用でブルースの髪を撫で回した後、背中に下りて強く抱き締めた。
「……!」
 すっぽり包まれた形になったブルースは、振り上げた拳を下ろす事も出来ず――ただ規則正しい寝息が額に掛かるのを感じていた。



 小鳥の鳴き声が心地よく耳を包み込む。頬に当たるのはカーテンの隙間から差し込む陽光だろう。習慣通りの爽やかな目覚めを感じながら、クラークは腕を伸ばし、上体を起こした。
「ブルース、朝だよ!悪いけど今日は早目に出ないといけないから、起きて……」
 横で眠る闇夜の騎士を起こそうとした手は、しかし何にも当たらぬままベッドに落ちる。
 え、と横を向いたクラークは、自分以外の痕跡ひとつ留めていないベッドに目を丸くした。
「え、え、ブルース?!どこだ?!」
 シーツを剥ぎ取り立ち上がった所で、クラークはベッド脇の卓上に置かれている、走り書きがされた紙に気付いた。慌てて手に取り、目を寄せる。
『先に帰る。B
 追伸・今日は家に来るな』
「……何でだろう」
 昨日眠りに就いた時はそれなりに上機嫌で、夜中には擦り寄って来た覚えさえあるというのに。
 もしかするとゴッサムでまたぞろ事件だろうか。そうだ、それだ。きっと起こすまい、余計な心配をさせまいと言う、ブルースなりの心遣いの表れなのだろう。
「そんな、水臭い……」
 メモを思わず握り締めながら、クラークはブルースの気持ちに感激し――今宵は絶対にウェイン邸へ赴くと、固く誓ったのだった。

「来るなと言った筈だ」とあしらわれて傷心の超人が、数時間後のゴッサムでは見られるかと。

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