HEAVY LOVE

 ゴッサムの寵児が泊まるには不釣合いな部屋だ。夜景を独占する大きな窓もなければ、足首が埋まるほど上質な絨毯も、革張りのソファも存在しない。一流ホテルや大邸宅に慣れた者の目には、殺風景かつ粗末な部屋として映るだろう。

――犬小屋と間違われないか?
 天下のブルース・ウェインを招き入れる際、クラークはそんな心配を思い描いていた。幸いブルースもそこまで世間知らずではないのか、部屋を人間の居住空間として認めてくれた。また育ちの良さもあるのだろう。辺りを見回す事もなければ、軽蔑を見せる事もなかった。「良い部屋だな」とブルースが呟いた時の安堵を、クラークは生涯忘れまい。

 それから数ヶ月経った今、ブルースは近所で買ったソファに座り、クラークが淹れた紅茶を飲んでいる。これも陶磁製のティーカップではなく、クラークが1人暮らしを始めた時に買ったマグカップだ。
「アルフレッドの腕には及ばないけど」
「いや、……悪くない」
「良かった」
 クラークもブルースの横に腰掛けた。紅茶党の彼の為に、と励んだ成果があったというものである。クラークは嬉々としてカップに口を付け――る前に、はたとある事に気付いた。
「ブルース」
「何だ」
「砂糖もジャムも使わないのかい?」
 雑貨屋の安売りで買った砂糖壷は、使われた形跡の無いまま机の上に乗っている。苺ジャムも同じく、だ。珍しい。いつものブルースならば2杯は確実に入れる。
「ジャムは母が大量に届けて来たから、一瓶持って行って貰おうと思っていたんだが……口に合わなかったかな?」
「まさか!」
 ブルースは頭を振った。海の底のような瞳が揺れ、視線がさ迷う。何か言い辛い事があるらしい。クラークは、そっとブルースの顔を覗き込んだ。
「…何か訳でも?」
「……」
 しばしの沈黙の後、ブルースは思い掛けない一言を口にした。

「体重制限?!」
 大仰に叫んでしまったクラークへ、ブルースは眉間に皺を寄せる。
「そんなに驚く事か?」
「ああいや、そんな事は……ただ意外だったから」
 慌てて否定を示しながらも、クラークの頭の中では「ブルースがダイエット」のフレーズがちかちか点滅していた。
――普通なら想像出来ない組み合わせだ。

「断れない晩餐の誘いが多くてな。パーティなら摂取を控える事も出来るが、公式の席となれば失礼だろう」
「…そう言えば、最近よく国賓との会合に顔を出していたね」
 お蔭でブルースがメトロポリスに来てくれたのだが。
「ああ。これで連日連夜の晩餐から逃れられる」
「お疲れ様。……でも、このままでも大丈夫そうだよ?」
 スーツ姿を上から下まで万遍なく眺めながら、クラークはそう口にした。普段と全く変わりのない、端整な姿ではないか。透視する必要もない。
「数値的にはこのままでも構わないのだが……前からウェイトを絞ろうと考えていたからな。それにいつもより体が重く感じる」
 確かに、ブルースの場合は油断が死に繋がるのだ。少しの異常も疎かには出来ないだろう。己の肉体から精神まで、全てを制御しようとする彼の努力には、クラークも頭が下がるばかりだ。申し訳なさすら感じて来る。

「そうか……。うん、でもこのジャムは持って行ってくれないかな。アルフレッドにでも」
「良いのか?」
「もう一瓶持って行って欲しい位さ。それに君の体重が戻ったら、出番も来るだろうしね」
 片目を瞑ったクラークに、ブルースは微かな笑みを浮かべた。
「…なら、頂いていこうか」
「遠慮なくどうぞ」
 紅色に輝く苺ジャムに、ブルースが目を向ける。その横顔を見つめながら、クラークは「太ったブルース」を想像しようと試みた。頬と言わず腹と言わず肉の付いた彼。具体的な姿は思い浮かばないが、まず空を飛ぶのは無理だろう。丸々と太った蝙蝠を支えるだけの力が、あのワイヤーにあるとは思えない。何せか細いワイヤーとグラップルガンだけで飛び出しているのだから。
――待てよ。
 そうなったら、彼が自力と機械の力で空を飛べなくなったら、もしかしたら。
――僕が抱いて飛べるのかも……!
 小脇に抱えようが俗に言う「お姫様抱っこ」だろうが、クラークに抱かれて飛ぶのをブルースは嫌がっている。だが、彼が自分で飛べないとなれば話は違う筈だ。
 …クラークの頭の中で、今度は「ブルースを抱っこし放題」の文字が激しく点滅し始めた。
 分かっているのだ。そんな事態になればバットマンは廃業だろう。ただ、夢を見る機会は誰にも平等に与えられている筈だ。クラークは少なくともそう信じている。
「あー……ところでブルース?」
「どうした?」
 首を傾げるブルースへ、なるべく自然に聞こえるよう注意しながら、クラークは言った。
「君のグラップルガンとワイヤーって、何キロくらいまで耐えられるんだい?」
 唐突な質問に目を瞬かせながらも、ブルースは律儀に口を開いた。
「そうだな、最近の物なら250キロまで耐え切れるだろう。支えが頑健でワイヤーが新しければ280キロまで大丈夫だったな」
――280キロ以上あるブルース。
――僕の3倍近い体重のブルース。
 夢は、潰えた。
「クラーク?どうした?」
「いや、何でもないよ。そんなに丈夫なんだね。驚いたな」
 がっくり項垂れようとする頭を必死に持ち上げて、クラークは笑みを浮かべた。
「そこまで君が太らなくて良かった」
「……クラーク」
「冗談だよ。そこまで太れるなんて思っていない」
 たちまち剣呑な表情になった彼に、クラークは焦って手を振った。しかし次の瞬間、ブルースの唇の端は皮肉に持ち上がる。
「分かっている。が……もし私がバットマンとは思えないほど太ったら、どうする?」
「決まっているじゃないか」
 率直過ぎるほど率直に、クラークは答えた。
「今と変わらないさ」
 一瞬でブルースの顔から表情が消える。
「でもダイエットするなら付き合うけどね。見てみたいな、頑張ってジョギングする君――」
 クラークの言葉と想像はしかし、ブルースの唇に塞がれて途中で消えた。


「…うん、やっぱり太っていないよ。この辺もそんなに変わってないし」
「分かったから、黙れ」

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