唇に感触が当たる。ケプラーに包まれた指が、そっと僕の背中に触れた。そして目蓋を伏せる気配。
キスする時、彼は目を閉じようとしない。青い瞳が近付く僕の顔を映し出す。冬の海を思い起こしながら、僕は先に目を瞑る。
視界が闇に覆われる寸前、ちらりと見える彼の顔には、微かな怯えが浮かんでいる。
怖がっているのは分かる。でも、何を?
世界最高の名探偵は、世界最高の複雑な魂を持っている。僕にはなかなかその謎が解けない。
男同士だから?キスに慣れていないから?触れるのが怖い?それとも――触れた後で、失うのが?
まだ結論は出ない。きっと一生出ないだろう。それでも構わない。原因より大事なのは、怯えを取り除く事なのだから。
下唇を軽く噛む。貪るキスはベッドに入ってからだ。短く、長く、何度も繰り返す内に、彼の方も少しずつ応えてくれるようになる。
その唇に血の味がする事もある。その唇が外気でかさついている事もある。だけど、彼とのキスはいつだって甘い。戦闘が終わった後でも、砂糖菓子を含んだ後のように。
彼が僕を嫌がっていないからだと、そう思うのは傲慢じゃない筈だ。拒否の言葉を紡いだ彼の舌は、驚くほどの熱さで僕に絡み付く。
彼が僕を好きだからだと、そう思うのも傲慢じゃない筈だ。上昇する体温と心拍数が僕に自信を与える。背中に突き立てられた指の力が、キスだけでは終わらない事を僕に告げる。
だからこそ、僕はゆっくりと顔を離した。
冬の海がまた目の前に広がる。濡れた唇への未練を押し殺して、その耳元に囁いた。正直な感想を。
「溶けそうだ」
その言葉も冷えそうな一瞥。でも、それも長続きしない。分かっている。知っている。第一声は必ず、キスの余韻で震える事も。
「…鋼鉄の男の癖に」
予想通りの声と微笑に、僕も笑ってキスの雨を降らせた。
今度は、彼も怯えを見せなかった。