吸血鬼

「全く、酷い目に合わされたよ」
 青いタイツ姿のまま椅子に腰掛け、クラークがそう呟いた。普段は朗らかな声音も、今日ばかりは疲れを滲ませている。無理もない。精神の自由を奪われ、葛藤を続けていたのだから。
 クラークは天井に向けて溜息を吐くと、右手を軽く握り締めた。太古から長らえて来た吸血鬼を、ほんの数時間前に滅ぼした手だ。そして、仲間を殺す助けを行った手。
「…随分と迷惑を掛けてしまった」
「気にするな。年中行事の1つだろう」
 マスクを取りながら、あえて軽く答えた。誰かが敵に操られ、味方を攻撃する――多くは無い事態だが、年に1度は必ず起こるような事件だ。いつぞやの、仲間達がほぼ全員操られた事件を思い出したのか、クラークが小さく笑う。
「慣れたくは無いイベントだけど」
「違いない。…痕が残ったな」
 手袋を外した指で、クラークの首筋をそっとなぞる。右側に薄っすらと浮かんでいる2つの穴。紛れも無い牙の痕跡だ。クラークの精神を支配下に置いた、あの吸血鬼の。
「奴を倒せば消えると思ったが」
「今はまだ夜だからかな。朝日を浴びれば消えるんじゃないか?僕も回復能力が上がる」
 ベッド脇に置かれた時計は、丁度3時を回った所だった。日が上るまで数時間ある。
――それまで、このままか。
 傷跡を付けたクラークなど、そうそう拝めるものではない。極めて稀な状況にしかし、心はさっぱり浮き立たない。むしろ苛立ちが油のように、じわりと心を浸していく。
「痛みは?」
「無いよ」
「そうか」
 何度も何度も、傷跡の上に指を滑らせた。僅かに引っ掛かる感触が憎らしい。もう塵と化した敵に対する怒りは、クラークを操った事よりも、彼に傷跡を付けた事に対する方が大きかった。
「ブルース?」
 どうかしたかい、とクラークが顔を伸ばして問うて来る。その呼び声と、間近になった青い瞳が、ようやく苛立ちの原因を思い当たらせた――悔しいのだ。
 ベッドを共にする時、噛んでも引っ掻いてもクラークには痕跡ひとつ残らない。自分の肌と異なり情交の痕を一切留めない肌に、しかし不公平だとは言えなかった。言った所できっと、眉尻を下げた彼に、「ごめん」と謝られるのが分かっていたからだ。
 だから背中に爪を這わせる代わりに、黒髪を思い切りかき乱して。首筋を噛む代わりに、そこに比べればまだ柔らかい耳朶を噛んで。翌朝には鳥の巣のようになった髪型を見る事で、満足していると言うのに。
 自分は唇の痕ひとつ付けられないにも関わらず、あの吸血鬼はあっさりと牙の痕を残していった。しかもよりにもよって、組み敷かれている時に、丁度噛みやすそうな位置ではないか。
――あんな奴に。
 原因が分かった途端、心に広がっていた不快の油には盛大に火が付いた。知らず知らず眉がきつく寄っていく。
「ぶ、ブルース?やっぱり怒っているのかい?」
「……別に」
 目を逸らして指を離した。
 分かっている。大人げ無い事は自分でも良く分かっている。が、どうにもこうにも苛立ちは収まらない。いっそ十字架をクラークに渡さず、自分で倒してしまえば良かった。
「でも今の君は、その、目が怖いよ……」
「地顔だ」
 無愛想に言い放ちながら、傷を何とかする方法は無いかと考えを巡らせる。十字架を押し当てるか、聖水か、ニンニクか。
 いやそれよりも、手早く怒りが収まる方法が、ひとつ。
「クラーク」
「何だい?」
 ようやく視線を合わせた事に安心したのか、クラークは人懐っこい微笑を浮かべた。
 そのケープを掴んで顔を固定させると――ブルースはクラークの首筋を食んだ。
 1度強く噛み付いた後、舌先を牙で窪んだ部分に這わせる。それから仕上げに、強く吸い上げた。
 まるで本物の吸血鬼のように。
 口を離し、少し付いた唾液を指で拭う。これでもう、この傷はブルースが付けたようなものだ。僅かながら唇が満足で綻んだ。
「ブルース……」
 呟きに視線を移すと、クラークが信じられない物を見たと言う風に、ぽかんと目を丸く開いている。
――やり過ぎたか。
 慌てて唇を引き締める。しかし後悔はしていなかった。誤魔化しがてら、目線を再び傷跡に戻す。だが今度はブルースが目を見張る番だった。
 痕が、明らかに先程よりも薄くなっているのだ。ブルースの目前で2つの傷は徐々に薄れていき、やがて他の皮膚と完全に同化してしまった。見事な回復能力の発露である。それでもブルースは叫ばずにいられなかった。
「クラーク!どうして奴の時は塞がらなかったのに、私がやるとすぐ」
 抗議の続きは、弾丸以上の速さで押し倒された拍子に、虚空に溶けて消えてしまった。



 次の日の朝。
「おはよう」
「……」
 ブルース限定の吸血鬼が、日の光を浴びながらにっこりと笑う。
 その四方八方に跳ねた黒髪に向けて、ブルースは枕を投げ付けた。

超人の回復能力は、メンタル面の影響も大きそうだと勝手に思っています。
凹み気味の時は回復が遅くて、活き活きしている時は回復も早い。
なので怪我をした際には、優しくして!と蝙蝠に引っ付いて(以下略)。

design : {neut}