POISSON D'AVRIL

 雲の向こうで朝日が昇る。窓枠に彫られた精緻な模様が照らし出され、暗さに慣れた目を鋭く射た。
 4月1日は終わったのだ。
「熱が出始めたようですな」
 ブルースの汗ばんだ額を拭きながら、アルフレッドは言った。
「いつ引く?」
「明日の正午には平熱に戻りましょう。ベッドに横たわり安静になされば、の話でございますが」
「分かった。今日の予定は全て……」
「お断りの電話を入れて参りましょう」
「頼むよ」
 忠実な執事は深く頷き返しながら、ブルースの側を離れていく。霞みがちな視界の中、遠ざかる痩せた背中が、縋り付きたい衝動を駆り立てた。
 だが扉は静かに閉まり、主1人を室内に残す。ブルースは静かに目を伏せた。
 耳の奥でジョーカーの笑い声が響く。「お前の席はここにいつでもある」と、奴は笑って手を振っていた。
――エイプリルフールは終わった。
 だが部屋の片隅にある暗闇は、アーカムのものと同じではないのか?下に広がるケイブの闇は?そして自分の内にあるものは、彼らとどこが違うと言うのだ?
 ブルースは唇を噛み締めた。強く、強く。
 丁度その時、ノックの音が聞こえた。扉ではなく壁でもない。テラスに通じる窓からだ。
「開いている」
 唇に滲んだ血を舐めてから、ブルースは微かな声でそう答えた。きぃ、と軋みを上げて窓が開かれる。が、室内に入って来る様子は無かった。
「昨日の話を聞いたんだ」
 窓の外から聞こえる声は、常よりずっと抑えられている。
「無事かどうかだけ、確かめたくて。すぐ帰るからゆっくり休んでくれ」
「大した傷ではない。良いから入れ」
「だけど」
「テラスにいるのと、中にいるのでは、どちらが人目に付きやすい?」
 答えに代わって再び窓が鳴った。次いで聞こえた足音に、ブルースは少しだけ目を細める。無論それはいつものように、鋼鉄の男の顔が現れた瞬間、消してしまったが。
「……君も大変だな。イベントや祝日の度に呼び出される」
 僅かな沈黙を見せてから、明るい声でクラークは言う。大怪我だ、辛そうだなどと言わないのが、ブルースには心地よかった。
「私は彼らがパーティーに呼べる、数少ない“友達”だからな」
「余り良い冗談じゃないね」
「事実だ」
 自嘲気味に答えると、クラークが眉をひそめた。それに微かな罪悪感が湧くが、ブルースは歌うように口を動かし続ける。彼を痛めつけたいのか、自分を傷付けたいのか良く分からないままに。

「ジョーカーが私を呼んだのは、あそこが私のいるべき場所だからだそうだ。マッドハッターはあそこにいる者達が私の鏡だと言った。クレイフェイスは私に助けを求めた」
「ブルース」
「私は恐らく、彼らの同胞だ」
 ぐったりと枕に頭を任せながら、ブルースは目を閉じた。
「それでも」
 温かな指先が頬に触れる。ひどく優しい手付きでクラークはブルースの髪を撫ぜていく。
「君は、奪われる事の哀しみも、孤独の辛さも知っている。誰かと共にいられる幸せも、側にいる人達への感謝も、決して忘れてはいない筈だ。そうだろう?」
「……ああ」
 薄くブルースは目を開いた。
「君は彼らと似ている。でもそれは、ご両親を奪ったものと戦う為、彼らに恐怖を与える為にそうしたんだろう?君がその心を持ち続けるなら――そうして今のように悩む事が出来るなら、あちら側に行ってしまう事なんてないさ。…それに……」
 躊躇うようにクラークの指が揺れる。今度ははっきりとその顔を見据え、ブルースは先を促した。
「それに?」
「僕が行かせない」
 未だ訪れぬ夏の空色をした瞳が、ひたとブルースの顔に当てられる。
――ああ、これだから、この男は。
 腕を伸ばし、抱き締めたい思いとブルースは戦った。
「…ちょっと自惚れかな」
「そうだな」
 内心を押さえ込んで頷きながら、クラークの手にブルースは顔を寄せる。
「だが、まあ……悪くない気分だ」
ブルースの言葉にクラークは笑った。



 今宵もゴッサムの夜空には、蝙蝠を模したライトが浮かぶ。
『次のニュースです。トゥーフェイスことハーヴェイ・デントが逃走しました。デントはアーカム・アサイラムにて治療を受けていましたが、昨夜の占拠事件で治療が中断され……』
「恐れ入りますがブルース様。私は今朝、安静にと申したように記憶しております」
「5分前までは私も従っていたが」
 闇夜を孕んだケープが、衣擦れの音を立てて広がる。
『4月“2”日という刺激が彼を脱走に駆り立てたと考えられています。市民の皆さんは十分に警戒し、2の付く場所に出掛けないようご注意下さい。では次のニュースです』
「ハーヴェイを連れ戻さねば」
「アーカムに、でございますか?」
「いいや」
 マスクを付けたブルースは、おもむろに振り返るとこう言った。
「こちら側に、だ」



 僅かに欠けた月が、雲間からゴッサムを見下ろしている。その視界に過ぎる、蝙蝠の羽。
 4月2日の夜は、まだ始まったばかりだ。

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