ブルースとこういった関係になって、何ヶ月経った事だろう。
「…じゃあ、そろそろ、寝ようか」
「そうだな」
クラークとしては意を決しての一言だったが、ブルースは無造作に答えるだけだ。仕方なくクラークはテレビの電源を切った。アパートの一室が急に静まり返る。その静けさに気詰まりを覚えながら、クラークは歯を磨きにバスルームへと赴いた。
ブルースがこの部屋に泊まるのは、もう珍しい事態ではない。喜ばしい限りだと口中で呟き、クラークは歯磨き粉のチューブを手に取る。
彼を抱きしめた経験もあるし、キスした回数だって両手の指では足りないほどだ。
それでも、ブルースはこの部屋で眠る時、ソファを使う。
クラークは眉根を寄せる。歯磨き粉の苦味のせいではない。
確かに機会はあったが、きっかけが掴めなかったのだ。それまでブルースは普通にソファで眠っていたし、こういう仲になってから、寝室へどうぞと誘うのも据わりが悪い。友人としての一線はもう越えている。が、言ってしまったら本当に、今まで通りの仲ではなくなる気がする。その微かな怯えが、未だに喉元で言葉を詰まらせていた。
別にどうこうしようって訳じゃないんだと、言い訳してクラークは口を濯ぐ。
そんな情動を覚えないと言ったら嘘になる。嘘になるがしかし、ベッドに入ってすぐ、なんて想像は出来なかった。
ただ一緒にいたいのだ。ふと夜中に目を覚ました時、ブルースが横にいたら、どれだけ嬉しいだろうか。朝の光があの頬に差している所を、何より早く見たいと思うのは、駄目なのだろうかとクラークは考える。
それでも、友情だけだった昔の名残を、消してしまうのが怖かった。拒否されるのも怖いし、承諾されたら承諾されたで、きっと物凄く緊張してしまうだろう。だけど、ブルースも同じ考えを持っていてくれないだろうか。そんな期待をしてから、クラークは歯ブラシをコップの中に立てかける。
色々と手馴れているだろうブルースは、もしかして自分を笑っているかもしれない。奥手だの田舎者だの保守的だの、散々浴びせられて来た言葉が、今になって耳元で甦る。手に水を取って、残っていた歯磨き粉の残滓を拭うと、クラークは軽く俯いた。馬鹿にされるのは慣れっこだが、ブルースにそう言われるとしたら、かなり、堪える。
いやそんな考えは、彼に対する侮辱だ。そう言い聞かせ、クラークは居間へと足を進ませた。
「お待たせ。歯ブラシはいつもの場所、に……」
置いてあるから、と言おうとしたのだが、唇が動かない。視線もだ。
「分かった。早かったな」
ソファの上には、スーツの上着とネクタイが横たわっていた。灰色のシャツは僅か2個のボタンを残しただけで、裾をだらりと垂らしている。その隙間から、外されたベルトが垣間見える。
首から腹筋にかけて、ブルースの肌が曝け出されている。中途半端にぶら下がったシャツの影が、あちこちに残された傷跡が、肌の白さを際立たせていた。
ブルースの剥き出しになった上半身ならば、クラークだって何度も見た。だが今のように、脱ぎ掛けた様など、灯りの下でなど――
自分の体が自分のものではない。そんな気がする。気付けばクラークは足を動かしていた。
あっと言う間にブルースとの距離は詰められる。ボタンを外すべく上げられていた手を、クラークは勢い良く掴み取った。
「ブルース」
頭ががんがん鳴っている。歯磨き粉の味を舌に感じた。間近に迫った首筋の線はいかにも硬そうで、噛み付きたいような衝動を誘う。
だがブルースは、何事もないかのようにその首を傾げ、クラークを見返した。
その仕草に、クラークは我に返った。
「どうかしたのか?」
いつも通りの声でブルースは問う。
頬を染めたり、顔を背けたりされれば、きっと先へ進んでいただろう。だがブルースの様子は本当に自然で、普段と変わりない。
非日常の姿に喚起された、非日常の情動は、あっさり矛先を収めて消えていってしまう。
取り残されたクラークは、それでも何かを言おうと唇を動かした。
「あ、いや、その、ベ」
「ベ?」
馬鹿、とクラークは自分を罵る。寝室で眠らないか、ならともかく、どうしてベッドなどという隠微な言葉を吐き出したのか。焦って纏まらない思考の中、ベッドという単語のみが渦巻いて踊り始める。
訝しげに自分を見詰める、ブルースの瞳が痛い。慌ててその手を離しながら、必死の思いでクラークは言葉を紡いだ。
「ベ、ベっ、ベンチャー企業の発展について君の意見を聞かせて貰えないだろうか?!」
「……眠るのではなかったか?」
「さっきえーっと、あの、歯磨きしていたら、唐突に思い出したんだ!」
ベンツの方が良かった、などと思いブルースを見ると、矢張り眉を寄せている。しかし何とか得心がいったのか、ブルースは軽く顎を引いた。
「分かった。今から答えよう。…メモは取らなくて良いのか?」
「え?」
「記事か何かにするのだろう?」
「と、取るよ。勿論じゃないか」
クラークが寝室からメモを取り出し、居間へ戻って来ると、既にブルースはシャツの前を留めていた。
社員に優しく付き合ってくれる社長は、それから1時間ほど掛けて、きちっと己の持論を展開してくれた。記事にしても申し分ない良い出来だった。
しかし記事のネタよりも、欲しいものは別にあるのだと言い出せぬまま、クラークは結局1人きりのベッドで眠りについた。
“B”
…こんな感じで3年くらい経つかもしれません。
あと蝙蝠はちょっと確信犯です。
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