だけど月日の経った今では、花は古びたベージュの生地に埋もれて久しい。蔦も途中で擦り切れている。
しかし代わりと言わんばかりに、嫌味なほど長い足を伸ばしている男が、1人。
そしてその男に膝を貸している男が、また1人。
「良いのかな」
「良い。私の部屋だ」
「や、この格好もそうだけど」
膝の上にあった頭がごろりと転がり、こちらを向いて微笑む様に、ブルースは思い切り眉を寄せた。ただ、限界まで目を細めて笑っているクラークには、ブルースの渋面など分かりっこない。
「こんなに幸せで良いのかな、僕、人生の運を全部使い切ったような気がして……」
「使い切った所でたかが知れているだろう。大人しくしていろ」
「うん」
殊勝に頷いてから、それでも太腿へと頬を寄せるクラーク目掛けて、ブルースは持っていた雑誌の角を軽く落とした。上がる悲鳴と止まった頬の動きを確認してから、ブルースは再び雑誌の中へと視線を戻す。
「痛いよブルース」
「幸せなら耐えろ。少し位は不幸も味わえ」
誌面を見つめながら言い返せば、受諾とも不服とも取れる声が返って来る。どちらにせよ、生地越しに頬をぐりぐり寄せる動きが無くなったのは有難い。
クラークが見えないような位置に雑誌を動かし、ページをめくった。真新しいインクの香りがブルースの鼻腔を擽る。今月号のエンジン特集は実に興味深い。しかしそれを遮って、一体何がどうなってこうなったのだろう、とブルースの脳裏を数度目の疑問が過ぎった。
2人きりとなったウオッチタワーのシフトか、はたまた平和によって2人の所へ運ばれた退屈か。とりあえずトランプを置き忘れていったフラッシュが悪い、とブルースの脳は結論付けた。
あれさえ無ければクラークも馬鹿げた勝負を持ち掛けず、またブルースも乗らなかったのだ。いわんや勝利の品をや。
勝った方が負けた方に何でも命令出来る権利など。プレイボーイごっこで賭ける不要な車の方が、まだ心躍らせる代物だ。更にその上、膝枕など。鋼鉄の男が持ち出すには余りにも不釣合いな景品だ。
膝上にある温かいものは先程で懲りたか、身動ぎもしない。セリーナの飼い猫で最も大人しい子もこうはいかないだろう。それはそうだ、躾け方が違うと内心で嘯きながら、ブルースは静かにページをめくる。今月号の最新車体特集は実に興味深い。思わず手を止めてしまった。
そう言えば膝枕と言うが、実際に乗っているのは太腿の上ではないか。一体その違いはどこで派生したのだろうかと、極めて言語学的で純粋な思考へとブルースは導かれていく。膝にこの重たい頭など乗せたら痛くて堪るまい。だから今、クラークが頭を乗せているのはブルースの太腿だ。
太腿、いや、今月号のエアバッグ特集は実に興味深いと、ブルースはページをめくる。実験時に使われる人間代わりのマネキンはマニア心を擽ると言う。だが矢張り膝の形から考えると、人の頭を乗せるのに最適なのは太腿の方であり――
しかし
だが
いや、だから――
超論理的思考がブルースの脳裏に結論を出してくれた。
つまり自分は今、とても、この状況に動揺しているのだと。
「ブルース?」
「っ!」
顎に触れた指先と耳朶を叩いた声に、ブルースは竦み上がった。取り落し掛けた雑誌を慌てて持ち直す。瞬時の動揺が潮のように引いた後、波のように込み上げて来た羞恥に、自然と発する声が大きくなった。
「脅かすな!何なんだ一体?!」
「ご、ごめん」
雑誌とブルースの体にある隙間から、出ていたクラークの指が引っ込まれていく。しかしおずおずと指先を戻しながら、クラークは濃い眉を八の字に寄せて言った。
「し、静かだから集中しているのかなと思ったんだけど、君の心拍数がどんどん上がっていったから、心配になって」
「……ブレーキ特集の素晴らしさに興奮していたんだ」
「なら良かったよ」
病気じゃないんだね、と眼鏡の奥でクラークは青い瞳を細める。ゴッサムの空は相変わらずの曇天だが、こちらの空はいつもに増して、雲も裸足で逃げ出し兼ねない晴天だ。
頭と同じく温かい指先が、ブルースの顎をくすぐりに来る。黙ったまま、なすがままな理由は、雑誌の出来が優れているからだ。そうに決まっている、と己に断言してブルースは目を雑誌に戻すが、クラークの腕は勢い付いて伸びていき、やがて唇の横や頬の辺りにまで指が這う。
こんなに丸くて大きな指先で、どうやってキーボードを打っているのだろう。ブルースがそう考えている内に件の指は、つつ、と下唇を辿り始めた。
内心が現れて、普段より少し突き出し気味の下唇を、指が静かに往復していく。クラークの頬がまた太腿に重みを掛けてくる。太陽さえも不必要と言わんばかりに、空色の瞳が蕩けそうな輝きでこちらを見ている。
「そんなに触っていると」
唇の端へ指がゴールした隙に、ブルースは言った。
「噛むぞ」
「どうぞ?」
「…このマゾヒスト」
「じゃあ君はサディストだな」
笑いを潜めている声が、言い終わるより早くブルースは指に噛み付いた。前歯で挟んでぎりりと締めて、どうだとばかりに見下ろせば、不意に膝の重みが消える。
花も蔦も擦れてしまった長椅子に浮かぶ、大きな男の影。
ブルースに指を噛まれたまま、クラークは浮いていた。
「私の部屋でもそれは不許可だ」
「許してくれないかな。丁度ほら、マゾヒストとサディストでお似合いだしね」
喋った拍子に指がするりと抜ける。目前で1人、無重力を味わう男は、ブルースのひそめられた眉間目掛けて顔を寄せて来た。覗き込まれるより早く、ブルースはさっと雑誌を閉じる。
閉じた後で気付いた。まるで待ち構えているようだと。
「断る。あと1つ、変態心理学的な見地とゴシップの点からお前に忠告だ」
「それは?」
唇を落とす寸前、クラークは小首を傾げる。
「本当のサディストはマゾヒスティックな一面も持っていると言うぞ?お前とは少々偏り過ぎ」
「じゃあ益々僕らはお似合いだね、ブルース」
傍らにブルースが雑誌を置くのを、待ちかねたようにクラークは額へと唇を落とした。
「マゾヒストに関しても同じ事が言えるだろう?そうしてもほら、僕らは逆になるから、相性がぴったりじゃないか」
言葉と裏腹に爽やか極まりない笑顔で、クラークはそう言った。
思わず雑誌を胸に引き寄せようとしたブルースは、しかし次の瞬間伸ばした手を絡め取られ、更に次の瞬間にはどう言う訳か長椅子の上に転がっていた。
「……で、ここからはサディスト?それともマゾヒスト?どっちが良い?」
ちなみに数時間後、互いがもう1つの顔で外に出るまで――ブルースは長椅子から放り出された雑誌の名が、「今日のおかず〜打倒夏バテ!美味しさいっぱい特大号〜」だったと気付く事は無かった。