丁寧に挨拶を告げてから、アルフレッドは受話器を置いた。再びひっそりとした静けさが邸を包み込む。柔らかな日差しも、どこか遠慮がちに、座る者のいないソファに温もりを与えていた。
ふむ、とアルフレッドは髭を捻り、壁の時計を見上げる。紛れもなく時刻は正午だ。なのに主は自室から出て来ない。昨夜は早めに夜の散歩を切り上げ、怪我1つなく帰って来たのだ。そんな時は決まって10時頃に起き、トレーニングや器具の微調整を済ませ、今頃は居間のソファに座り込んでいるというのに。
天下のバットマンとは言え、精密機械ではない。生活リズムを乱す事とてあるだろう。しかしそれにしてもと、アルフレッドは首を傾げながら、ブルースの部屋へと向かった。
重たい木の扉は、強めにノックしなければ音が届かない。どれ位の音を出せば主が起きるか、長年の経験で悟っているアルフレッドはしかし、今日はいつもより更に強くドアを叩く。呻き声がした。入れとの返事である。
「今日は素晴らしい朝でございましたよ、ブルース様」
「そうか…良かったな、それは……」
薄暗い室内の奥、ベッドの上では、何やら白いものが動いている。それを尻目にアルフレッドはつかつかと窓に歩み寄った。勢い良く、厚いカーテンを引っ張る。途端にテラスに通じる大きな窓から、明るい陽光が飛び出した。ベッドの上にいる白いものはまた呻き声を上げる。
「もう少しだけ寝かせてくれ」
「ご不興を受けるのを承知の上で申しますと、ブルース様、只今の時刻は12時を4分ほど回っております」
じゅうにじ、と素っ頓狂な声が上がる。白いものの隙間から、ブルースの顔だけが飛び出した。シーツで出来た芋虫状態は止めないまま、彼は口を動かす。
「何でもっと早く起こしてくれなかっ」
「はい。10時を回った時点で起こすべきかと考えましたが、生憎の洗濯日和にすっかり気を取られておりました。申し訳ありません」
その代わり、今宵は快適なシーツを提供出来ると誓います。窓を背にそう言って胸を張ると、対照的にブルースは項垂れる。もそもそとブルースの顔をしたシーツのお化けが動く。
「…分かった、起きる。着替えてから行くよ」
「畏まりました。ああ、それから――」
先程の電話を思い出し、アルフレッドは手を叩く。
「メトロポリスでの株主総会に向けて、いつものホテルに予約しておきました」
「いつもの……?」
「リッツメトロポリスでございますが」
「ああ」
ブルースがしまった、と言う風に手で顔を覆った。ただその動作はいつもより緩やかで、まだ彼がベッドに心を残しているのだと如実に告げている。
「如何なされました?」
「12日の株主総会だろう?…すまないが、その予約はキャンセルにしておいてくれ」
「とおっしゃいますのは、別のご予定が?」
またどこぞの女優か、ご令嬢と会う約束でもしているのだろう。そこへ泊まりに行くつもりなのか。風紀の乱れを嗅ぎ付け、アルフレッドは僅かに片眉を上げる。口出しする気はないが、プレイボーイも度が過ぎるのは良くない。
が、主の口からは、想像だにしない言葉が零れ出た。
「いや、その日はいつも通りクラークの所に泊まるから、取っても無駄になるだろうと――」
クラーク。
クラーク・ケント。デイリープラネットの記者にしてヒーロー。スーパーマン。
アルフレッドの脳裏を、彼に関する情報が駆け巡る。雪崩を起こしている、と言っても良かろう。
ブルースを見れば、青い顔で口を噤んでいる。
背後のテラスへ通じる窓へと、アルフレッドは振り向いた。そっと窓を押す。あ、とブルースが小さく声を上げた。ほぼ同時に、窓が開く。
テラスの床を覗き込めば、そこにはくっきり、何者かのブーツの跡が残っていた。それは点々とテラスの先へ続いて消えている。
……まるで、誰かが飛び去ったかのように。
アルフレッドは窓を閉めた。鍵も掛けた。数呼吸分の間を置いてから、ブルースに向き直った。
首から下をすっぽりシーツで覆っている理由が、何となく読めてしまうのが物悲しい。これも年の功だろうかと、首を振り振り、アルフレッドは扉へと歩いて行く。
「アルフレッド……」
頼りなげな主の声が、アルフレッドの背中を追った。思わずぴたりと足を止めれば、すかさず次の言葉が覆い被さってくる。
「予約は断らなくて良いよ。ちゃんとそこに泊まる」
ちらりと目線を向けると、ブルースは顔半分をシーツに埋めて、アルフレッドを見上げている。幼い日そのままの仕草に苦笑を誘われながらも、アルフレッドは表情に出すのを押し殺し、代わって静かに頷いてみせた。
「キャンセルの連絡を入れて参りましょう。ただし、くれぐれもケント様のお邪魔にならないように」
「…もう子どもじゃないんだが」
「他所のご家庭に宿泊なさる事においては、まだまだ初心者でいらっしゃいますよ」
では失礼しますと、頭を下げてからアルフレッドは部屋を去る。
さて手土産にクリプトナイトでも持たせるべきかと考えつつ、彼はいつものように廊下を歩いていった。
どうやって痕を隠そうかと、クローゼット前に立ち尽くすブルースには、勿論アルフレッドの考えが分かる筈もなかった。