エスコート・ワルツ

 窓ガラス1枚。

 それを超えた先では、光の洪水がメトロポリスを満たしている筈だ。闇と言う名の黒衣と鎧を、この街の夜が剥ぎ取られて久しい。
 だが柳のように垂らされたカーテンが、光の波に対して見事に防波堤の役目を務めていた。広い部屋の中を照らすのは、前世紀風の装飾を施されたシャンデリアただ1つだ。

 その僅かな光が、カーテンの表に影絵を作り出していた。
 ひとつと見えたその絵はやがて別れ、また繋がり、離れて行く。強風に身を捩じらせる花のように蠢いていた影は、しかしとうとう完全に2つに別れた。

「ここで会うのは久し振りだね」

 手に持っていた眼鏡を胸ポケットに仕舞いながら、クラークは僅かに苦笑してみせた。今さっきまで貪るように動いていた唇は、そう笑うと不思議に上品で、詐欺だと眉を寄せたくなる。
 しかし代わりにブルースは足を組み直した。きぃとスプリングが立てた悲鳴に心惹かれたのか、また近付いて来るクラークの唇を、ブルースはそっと指で押さえる。

「寝室へのドアは覚えたのだろう?証明してみせてくれ、ボーイスカウト」
「抱えて行こうか?」
「結構だ」

 足を解いて立ち上がるブルースを背に、クラークが右奥の扉に向かう。金色のノブを手に取る彼に、ブルースも軽く頷いてみせた。
 控え目な音を立てながら、扉が外に向かって開かれる。

「さあお入り下さい、ミスター・ウェ――」
「クラーク。残念だがそこはトイレだ」

 慌てて中を覗きこむクラークを置いて、ブルースはその正面にある扉を開いた。こちらにも正面に窓が取り付けられており、リビング程では無いが見事な夜景が広がっている。そしてそれを堪能出来るようにと、注意深く配された大きなベッドが座していた。

「今夜も私がエスコート係だな、ケント君?」
「…前のホテルなら正解だったんだけど」
「その点は大いなる進歩だ」

 認めよう、とブルースは深く頷く。前回のクラークが間違えたのは、よりにもよってクローゼットのドアだった。それに比べれば大分良い。丸められた肩をひとつ叩いて、部屋の中へとクラークを導き入れた。
 扉を閉じるより早く腰に腕が回される。気が早いとブルースがからかいの言葉を投げる前に、ドアが閉じ、唇も封じられた。
「ん」
 絡め取られた舌に思わず吐息が零れる。部屋の暗がりへと理性を溶け込ませるべく、ブルースは目を閉じた。だが、踵から地面の感触が消えた事に眉をひそめ、再び目を開ける。

「飛ぶな」
「嫌いかい?」
「ベッドまで数メートルだぞ。歩いて行く」
「天にも浮かぶ心地、ってやつを表したかったんだよ」
「ジャーナリストの端くれなら言葉を使え」
「キスしながらは僕にも無理だ」
 だから、と言わんばかりに、顎先にクラークの唇が触れた。だからじゃない、と口を開きかけたブルースの視界がふとぶれる。
 気付いた時にはベッドの上だった。頭を包む羽根枕は心地良い。が、ブルースの表情は益々渋面の趣を濃くしていく。
 こう言った折に力を使われるのは嫌いだ。ロマンチックなのが好きだとクラークは言うが、その定義が彼とは微妙に異なっているらしい。少なくともブルースにとって、目にも留まらぬ速さでベッドに投げ込まれる事は、ロマンチックと言わない。

「ブルース」

 けれども、唇や鼻先を擦り付けて来るクラークに、ブルースの苛立ちは不機嫌レベルで収まった。シャツ越しに合わさった胸から伝わる、早い鼓動に眉間の皺も和らぐ。

「ブルース」

 もう1度名前を呼ばれ、顔を向けるとにこっと微笑まれた。いつもなら目尻も溶けそうなほど和らぐのだが、先刻からの狙い定めるような目はそのままだから、随分と精悍に見える。
――くそ。
 胸の奥で舌打ちを殺しながら、ブルースは手を伸ばす。撫で付けられたクラークの髪に向けて。
「今度はちゃんと歩かせろ」
「うん」
 指を差し入れかき回せば、セットがあっさり崩れ去る。露呈した癖のある前髪が一房、唇に先駆けてブルースの額に触れた。
 糊の利いたシャツの隙間に手を入れると、中に着込んだタイツが触れる。上に着る物ならばともかく、クラークの素肌に密着している物となると、流石のブルースにも脱がせられない。暗闇に浮かぶシンボルを撫ぜながら、こちらはあっさりと素肌に到達したクラークの手を、ブルースは密かに味わった。
 だがふと、その手が止まる。
「クラーク?」

 顔を上げれば、鋭い目をした鋼鉄の男が――そこにいた。

 珍しく寄せられた濃い眉の下、普段はにこやかな瞳の奥で、冷たい炎が渦巻いている。力が入った頬の線からは笑みの名残など一蹴されていた。
 放たれる直前まで引き絞られた、矢を思わせる容貌に、ブルースの背筋を稲妻めいた戦慄が駆け抜ける。
 しかしその衝撃から一瞬の後に、ブルースは唇を動かしていた。

「――そこの窓は開くぞ」

 ざざっ!と激しく波打ったのは、果たしてシーツかカーテンか。
 気付けばブルースはただ1人、ベッドの上に横たわっていた。

「……」

 中途半端に乱されたシャツを、だらりと垂れ下げたままブルースは身を起こす。開け放たれた窓へと近寄れば、遥か遠くで鳴り響くサイレンが聞こえた。火事だ。
 それと共に吹き込む冷たい風が、シャツの裾や髪を乱す。それでも体を巡り始めた熱は引かなかった。
 手や唇での愛撫よりも、脳裏でひっきりなしに再生されるのはクラークの顔だ。普段と全く異なる冷ややかな瞳が、ブルースの奥底に炎を掻き立てる。
「くそ」
 余程の敵か事態で無いと見られないあの表情に、乱れている自分をブルースは恥じた。忌々しげにシャツを脱ぎ捨て掛け、しかし再び吹いた強い風に顔を上げる。
 ブルースは窓を閉めた。
 鍵は掛けなかった。




 炎を上げるビルの前には、既に多くの野次馬が集まっていた。窓から助けを求める者が数人いるが、しかしそこからも黒い煙が吐き出されている。
 やがて野次馬の何人かが、空を指差し始めた。それに気付き顔を上げた消防隊員が、希望の光を顔に浮かべる。
 現れたスーパーマンの姿にうねるような歓声が起こった。

「思ったより早かったな」
 遠くで響く歓声に、男はマスクの下で舌打ちした。同意するように傍らの1人が頷く。
「さっさと詰めてずらかろう」
「ああ」
 トラックの荷台にアタッシュケースを詰め込んでいる4人が、ペースを速める。同時に最後の1つが割れたショーウィンドウを越えて運ばれた。
 街灯を恐れる必要も、麻痺させた警報が動く心配も無い。もう数分はスーパーマンの心配をする必要も無いだろう。男は仲間に手を貸しながらそう思った。火事で注意を逸らさせ、その間に店を襲う。我ながら良いアイディアだ。
 所詮メトロポリスのヒーローは1人でしかない。同業者達はあの鋼鉄の男を避けているが、裏をかけば何て事は無いのだ。むしろゴッサムよりも警備が手薄で良い。マスクの奥で男はひっそりと笑う。

 その頭上で同じくマスク姿の男が微笑んだ事を、知りもせずに。

「よし、これで最後――」
 言い終わるより早く、道へ蝙蝠の影が差した。
 互いに警告する余裕も無かった、と後になって男達は語った。

 空から降って来た巨大な蝙蝠は、その翼で1人を抱え込み、たちまち店内の闇へと消えて行った。茫然自失の状態から一早く立ち直った2人が、銃を取り出そうとした所を悶絶した。その腕には何か黒い物が光っていた。
 トラックに乗り込み逃げようとした3人は、運転席に乗った瞬間、フロントガラスを割られて恐慌状態に陥った。エンジンを掛ける間もなく運転手が引きずり出され、次いでもう1人がガラスを割りながら放り出された。
 最後の1人は、震えながら座席で膝を抱えていた所を、同様に引きずり出されてからすぐ気絶した。




「遅かったな」

 火事現場から異常を感じ、急行したクラークに、ブルースは男達を縛りながらそう言った。
「……良く分かったね」
「私の街ではこのやり方が定石だ」
 呻く男からクラークに目を移し、だが、とブルースは何気なく付け足す。
「お前なら、追い掛けて捕まえる事も可能だったな」
 余計な真似をしたと言外に匂わせるブルースへ、クラークはゆっくり首を振る。

「いや、助かったよ」
「火事はどうだった?」
「重傷を負った人はいない。1人煙を吸った人がいたけれど、命に別状は無いそうだ」
「そうか。……こいつらは?警察署に届けるか?」
 黒い手袋に包まれた指先が、路上で纏められている男達を示す。クラークが片頬を緩ませた。
「警察には連絡済みだよ。放っておいても大丈夫だ」
「手際が良いな」
「ここは僕の街だからさ、バットマン」

 そう答える瞳からは、先程の冷たい炎がすっかり消えている。鮮やかな夏空色を見詰め返しながら、ブルースは静かに頷いた。
「…そうだな、そうだった」
「でも」
 一瞬強盗達に視線をやってから、クラークはブルースの耳元へと囁きを吹き込んだ。
「嬉しいよ。迎えに来てくれたのかい?」
「まさか」
 厚い胸を押してブルースは首を振る。耳朶にたゆたう声を振り払う為もあったが、見透かしたようにクラークはその手を掴み、引き寄せた。
「おい!」
「誰も見ていないさ」

 間近に迫った瞳の奥に一瞬だけ、先程と良く似た炎が揺らめいた。思わず押し黙ったブルースのこめかみに、マスク越しの口付けが与えられる。
「…る」
「え?」
 聞き返したクラークの耳に唇を当て、ブルースはもう1度その言葉を繰り返した。

「今回だけはエスコートさせてやる、と言ったんだ」

 素早く離れて様子を伺うと、クラークは刹那ぼんやりと口を空けていたが――やがて目尻が緩み頬が和らぎ、極上の笑みがそこに宿る。

「誠心誠意、務めさせて貰うよ」

 ブルースの足から、地面の感覚が無くなっていく。赤と黒のケープの裾が踊るように絡み合った。
 メトロポリスの光の中に、そっと包まれていった2人を、到着した警察が見付ける事は無かった。

真剣な超人に惚れ直す蝙蝠が好き。
惚れ直した後で元通りになる超人に、蝙蝠はちょっぴり負けた気持ちになれば良いと思います。

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