お家に帰ろう

 もう少し座り心地の悪い椅子と、狭い部屋があったなら、あと30分は早く終わっていただろう。会議室から共に出て来た男達と、固く握手を交わしながら、ブルースはそう思っていた。
 それでも、会議は常よりスムーズに進んだ方だ。いつもならば、終わる頃には出席者全員の腹が鳴り出している。幸いにも今日は、薄っすらとは言えまだ明るい外を拝む事が出来た。
 連なるビルを一望出来るエレベーターで、ブルースは携帯電話を取り出した。そこには、海を泳ぐイルカの待ち受け画面――買ってからずっと変えていない――があるだけだ。着信は無い。
 会議で隣に座った中年の男に、しきりと褒められた腕時計を見やる。普通ならそろそろ企業の仕事が終わる時間帯だ。ここから数ブロックも離れていない新聞社から、人が輩出される時間でもある。
――今回も残業か。
 ブルースは携帯電話を折り畳み、背広の内ポケットに突っ込んだ。先日も、一面の記事が差し替えになったとかで、レストランのラストオーダーが終わる時間まで働いていた。尤も2人は、レストランには殆ど行かないが。
 余り遅くなるようなら、幾ら鋼鉄の男と言えども疲れるだろう。加えて昨日の救助活動だ。顔を合わさずにいる方が良いかもしれない。となると眠る場所を見付けなくては。ブルースは再び内ポケットから携帯電話を取り出した。
 だがブルースがホテルの電話番号を探し当てるより早く、エレベーターが口を開ける。右手に携帯電話を持ちながら、ブルースは大理石の床に足を踏み下ろした。ホールのあちこちに、迎えと合流した会議の出席者が散らばっている。1人なのはブルースくらいだった。親しげに上げられる彼らの手に、ブルースも微笑んで返しながら、玄関へと歩いていく。
 外で待つ気配には、自動ドアが開く前から気付いていた。
「ウェイン社長、お迎えに上がりました」
「ご苦労、ケント君」
「……もう少し驚いてくれても良いじゃないか」
「そう思うなら、もう少し気配を消す事だ」
 唇を尖らせたクラークに、ブルースは軽くそう答えた。持ったままの携帯電話を、再び内ポケットに放り込む。重みを感じた後で気付いた。クラークは疲れているのだ。
『他所のご家庭に宿泊なさる事においては、まだまだ初心者でいらっしゃいますよ』
――君は正しいよ、アルフレッド。
 さも泊まるのが当然、というような態度では不味い。クラークと並んで歩き出しながら、ブルースは携帯電話を取り出そうか迷い始めた。
「これから、ホテルに帰る予定かい?」
 迷っている内に、クラークがさらりと核心を突いてしまった。
「いや」
 首を振ってブルースは答える。それだけでも答えにはなるが、クラークは続きを待つように自分を見つめている。
「特に予定はないのだが、お前もその、疲れているだろう。だから別に今日はホテルで」
――何が言いたいんだ、私は。
 クラークのように盛大に慌ててしまえたら、どれ程楽だろうか。表面だけは冷静にしながらも、ブルースの頭の中では混乱がワルツを踊っていた。そんな様子に気付いているのかいないのか、クラークはにっこり笑う。
「じゃあ行こう」
――どちらへ?
 薄っすらと青味に包まれ始めた周囲を見回してから、クラークはブルースの腕を引っ張った。そのまま、ビルとビルとの間にある、狭い路地裏へと入っていく。
「おい、何をする気だ?」
「何をって、帰ろうと思って。ちょっと持っていてくれ」
 手渡された鞄をブルースは受け取る。その前で、クラークはネクタイを解き、シャツのボタンに手を掛け――
「待て」
 ブルースはその手を捕まえた。
「まさか飛ぶ気か?」
「その方が楽じゃないか。誰にも見られないよ」
「いや、だからな」
 鞄2つとクラークの手を握ったまま、ブルースは首を横に振る。大分疲れているのだろう、迷惑を掛けたくないからホテルに行く。そう言わなければならない。
 だがその言葉は、額に当てられた熱の所為で、音にもなれぬまま路地に消えた。
 唇が離れる。中途半端に口を開いて、ブルースはクラークを見上げる。仄かに目元を赤くしたクラークが、言った。
「早く帰ろう、ブルース」
 甘えるような響きに、逡巡が吹き飛ばされていく。それでも何とか足を踏ん張り、ブルースは問いかけた。
「疲れているのだろう?」
「うん」
 こっくりクラークは首を頷かせた。黒縁の眼鏡が外されたのは、その直後だ。露わになった青い瞳が細められる。
「だから君と居たいんだ」
 一拍置いて、ブルースは掌をクラークに向けて差し出した。
「何だい?」
「眼鏡を」
「え?」
「眼鏡を渡せ。それも持っておくから」
 吹き出すのを堪えたのだろう。クラークの頬が微妙に歪む。思わず背を向けたくなったが、ブルースは黙って掌を差し出し続けた。
 やがて重たい眼鏡がその上に乗り――赤いケープが、メトロポリスの宵闇に舞った。

早く寝かせようと思いながら、結局夜半過ぎまで一睡も出来なかったという話。

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