顔を上げれば星空が、下げれば雲海が視界に入る。体いっぱいに向かい風を受けながら、クラークは蝙蝠の街へと急いでいた。
――もうすぐだ。
急な残業のお蔭で、予定した時間を少しだけオーバーしている。アパートに1度帰るつもりだったのだが、DP社を出た時には既に予定の時刻だった。街では絶滅に瀕している電話ボックスで“着替え”を済ませると、クラークは大慌てで空へと飛び立ったのだ。
厚く垂れ込めたゴッサムの雲は、それでも昼間に比べると薄くなっている。検討を付けると、クラークはその中へ一気に飛び込んだ。視界が遮られたのはほんの僅かな時間で、次の瞬間、ゴシック建築に彩られた夜の街が、クラークの眼前に広がる。
犯罪と欲望が立ち込める都心部を越え、街を見下ろす丘へと進む。ゴッサムの放埓もこの邸宅までは届かない。それは違うとゴシップ好きの市民からは苦情が出そうだが、少なくともクラークは、彼らよりウェイン邸の主を知っていた。
赤い軌跡が、ある部屋のテラスへと続く。
手入れが行き届いた床の上に、クラークは着地した。わざと高らかに靴音を鳴らして、閉じられた窓へと近付く。薄いカーテン越しに灯りが見えた。住民はまだ起きている。
「ブルース?」
声を押し殺し、クラークはそっと囁いた。ここへ来るといつも、御伽噺の登場人物になったような気がする。中にいるのは金髪の優しいお姫様ではなく、黒髪の無愛想なヒーローなのだが、それが高まるムードに水を差す事は無い。むしろ、火に油だ。
カーテンの向こうで、人影がゆらりと動いた。優れ過ぎた聴力を打ち消すように、胸の鼓動が激しさを増す。
小さな音を立てて、窓が内側へと開き――
「ボスは留守だ、鋼鉄のピーター・パン」
「うわっ!」
レースのカーテンの間から、マスクを付けた少年がぬっと飛び出した。
「ろ、ロビン?!何でブルースの部屋に」
「彼からの伝言だ。“深夜のデートに誘われた。帰りは遅くなる”」
「何だって!」
クラークは思わず、黄色のケープを掴みかけた。が、慌てて中空で手を紛らわし、視線をさ迷わせる。ブルースが深夜のデート。それは本来、クラークが相手すべき事では無かったか。
――まさか、捨てられた?
いやそう考えるのは、ブルースに対する侮辱だろう。しかし先日のパーティにおいて、彼はクラークの目前にも関わらず、3人の魅力的な女性を口説き落としていた。決して有り得ない事態ではないのかもしれない。
が、クラークの心配は、呆気ないほど簡単に終幕を迎える。
「そう、デートの相手はヴィランだけど」
「え」
ロビンが悪戯な笑みを浮かべ、ひらひらと手を振った。
「ここへ来る途中、シグナルを見なかったのか?」
「あ、うん。見なかったな……」
そこまで来てようやく、クラークはブルースが仕事に出ているのだ、という事に思い当たった。ほっとするような話ではないが、矢張り安堵してしまう。
――浮気じゃなかった。
何はともあれ、それが嬉しい。
「だから僕が、メッセンジャーボーイ役に残されたんだよ」
「そうか。伝言ありがとう。えっと」
しばらく待ってもいいかい、と言おうとクラークは口を開き掛ける。しかしロビンが皆まで言わせず首を振り、アルフレッドそっくりの仕草で手を伸ばした。テラスの先へと。
「お帰りは、あちらだ」
「……少し、待たせて貰えないかな?」
「ボスがそのつもりなら、アルフレッドが代わりにいただろうな」
尤もな答えではある。クラークはそれでも立ったままだったが、窓を守るロビンは動こうとしない。未練と失望を抱えながら、仕方なくクラークは踵を返した。
「分かったよロビン。…ブルースによろしく伝えてくれ」
「了解」
踵を宙に浮かせながら、ふとクラークは振り返り、目を細めた。
「そう言えば、この前より背が伸びたね」
「人をガキみたいに言うな」
マスク越しの鋭い視線と、冷えてなお尖った声に、クラークはほんの少し驚く。ロビンとしての姿形はディックと良く似ているのに、この少年は遥かに攻撃的だ。
「気に障ったなら謝るよ」
それでも大人らしい言葉を発すると、クラークは完全に宙へ浮かび上がった。
「お休みロビン。良い夢を」
「あんたもな、スーパーマン」
その言葉を背中に、曇り空へとクラークは飛んだ――淡い青に光る目で、バットマンの影を探しながら。
「畜生」
1度は飛び上がった癖に、再び街へと降下した軌跡を見ながら――ジェイソン・トッドは、マスクを外して邸内に戻った。
「アルフレッド、ホットミルク沸かしてくれ!」
その声がクラークの耳に入っているとは、露とも知らずに。