ウェイン邸の廊下を少年が駆ける。
ここ数十年耐えて久しいそんな光景に、アルフレッドは目を細める。向こうからぱたぱたと走って来るディックのお蔭で、近頃のウェイン邸は明るい。
両親を失ったばかりの頃、ディックの行動は悪戯盛りの子とは思えないほど静かだった。せいぜいがシャンデリアに登る、武器に見立てた棒をこっそり振り回す程度で、いつもは暗い瞳をして歩いていたものである。
それが今では、両親を失う前のブルースのようだ。階段の手すりを使って滑る、庭で遊びまわって芝生を台無しにする、台所に忍び込んで盗み食いもする。昨日など、置かれた彫像に髭を付け足したのが露見し、ブルースの指導の下、2時間ほど消す作業に追われていた。厳正な顔付きで叱るブルースが、20年近く前に同じ事をしていたなど、ディックには思いもよるまい。
両親を失ったブルースは、ディックのように駆ける事をしなくなった。台所に潜入する事も、落とし穴を掘る事も、ぴたりと無くなった。まるで、子どもである事をどこかに――恐らくはあの小路に――置き忘れたようだった。
ディックも同じように、少年時代を置き忘れて来たのではないかと、アルフレッドは密かに心を痛めていたものだ。しかし数ヶ月経った今では、ディックは両親を失う前の彼を取り戻し、思う存分走り回っている。確かに大人びてはいるが、ブルースが持っていた、そして今なお持っている歪さはない。傷付いた少年は、少年として再び成長を始めているのだ。
「あ、アルフレッド!」
ディックが足を止め、笑う。その輝かしさで邸と主を照らし続けてくれるよう、アルフレッドは願う。
「お急ぎのご様子ですが、いかがなさいましたか?」
「これ、ブルースに教わって読んだんだけどさ」
右手に持っている雑誌をディックが差し出す。アルフレッドは恭しく預かると、表紙を見た。心理学の論文集であるらしい。見出しの1つには、「犯罪心理学――殺人に至るまでの心的過程」の文字が鎮座している。それがブルースの目を引いたのだろう。
「この学術雑誌が何か?」
「その中に、“人の好悪は初対面で規定される”って内容があったんだ」
再びアルフレッドが表紙を見ると、成る程、確かに小さくそんな文字が書かれている。ディックにはそちらの方が興味深かったようだ。アルフレッドは軽くページを開いていった。
「好きか苦手かが初対面で決まるならさ、一目惚れもありえるって事になるじゃないか」
「確かに有り得ますな」
「それがショックなんだ!」
頬を膨らませるディックに、何が面白くないのか分からないアルフレッドは首を傾げる。この年頃ならばそう言った現象に、もっとロマンを抱いても良いのではあるまいか。
――例えば、ブルース様のように。
「……恐れながらディック様、その理由を宜しければお教え頂けますか?」
「僕、ここ最近、一目惚れなんて信じていなかったんだよね」
「それはまた、何故?」
「だって」
ディックが言うより早く、アルフレッドの視界に階段を降りてくるブルースが映った。しかしディックは気付かず、大声で、そしてアルフレッドが口を挟む間もなく話し続ける。
「クラークがブルースに一目惚れしたんだって言うんだよ!僕は人ってのは知り合って好きになるんだ、一目惚れなんてクラークの勘違いだ、大体あんな蝙蝠の格好した人をいきなり好きになる訳がないよ、って言ったんだ。でもこの雑誌の人は初対面で好き嫌いが決まるって言うし、そうなったら一目惚れだってありだろ?そしたらクラークはブルースが本気で好きだって事になるじゃないか!僕だって折角聞いたあの言葉をクラークに教えてあげたのに――何だったかな、えーと、橋現象?」
「“吊り橋効果”だ」
「そうそれ!…それだ…よ……」
恐る恐る、という言葉が見事に体言された仕草だと言えよう。ディックはそっと、背後に立つブルースへ顔を向けた。
「アルフレッド、その雑誌を」
「私が閉まっておきましょうか」
「……そうだな、頼む」
「ブルース様」
再び踵を返しかけたブルースへ、静かにアルフレッドは声を掛ける。たっぷりと間を持たせると、ブルースは焦れたように先を促して来た。
「何だ。言っておくがアルフレッド、あいつの話は当てにならないぞ。何時だって本気かどうか分からない冗談で私を」
「お話を中断させるのは私としても遺憾なのですが、先程チーズケーキが焼き上がりまして」
すっとアルフレッドは居間へと手を向けた。
「お茶の時間になさいませんか、ディック様も――」
「うん!そうする!」
皆まで言わせずディックが答える。ブルースはしばしアルフレッドとディックを交互に見比べていたが、やがて、2人を置いて居間へと歩いて行く。
「――ディック」
「な、何?!」
息を詰めていたディックに、背中を見せたままブルースが言った。
「人が内密にと言った事は、例え信頼している相手にでも洩らすな。今回は、私は何も聞かなかった。良いな?」
「うん」
真剣に答えるディックだったが、しかし眉根を潜めてから、ブルースの背中に抗弁を投げかける。
「でもブルース、クラークは秘密とも何とも言ってなかっ」
「それではお茶を淹れましょうか」
そっとディックの背中に触れ、ティータイムと沈黙を促すと、アルフレッドはブルースに続いて歩き出す。ディックはむっと顔を顰めていたが、チーズケーキの言葉は脳裏で点滅を続けている。
「……ま、いっか」
自分は何も教えない。ブルースの態度もきっと変わるまい。
ならば後はクラーク次第だと、そう呟いてからディックは2人の背中を追いかけ、居間へと入っていった。
ひとめぼれ
数年後、ディックさんのうっかりから「蝙蝠も満更じゃない」と発覚。
そんなオチも考えたりしていました。
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