平日の午後だけあって、ロビーは人がまばらだった。スーツ姿のビジネスマン達が、礼儀正しく直視を避けながら、それでも執拗に視線を当てて来る。
ゴッサム、大富豪、社長、取引――そんな囁きを聞き取って、それでもブルースは平然と歩き続けた。注視を受けるのは慣れっこだ。さっさと空いているベンチの1つに腰を掛け、時計の銀盤を見やる。
――予定より15分オーバーか。
ならば既に迎えが来ている筈だ。しかし周囲を見渡しても、地味な大男の姿はない。微かに眉を寄せたが、すぐにそれは溶けた。遅刻の理由は想像出来る。
そう言えば電源を入れ忘れていたと、ブルースはポケットから携帯電話を取り出した。稼動させた途端に、画面には着信を伝える文字が躍り上がる。消えていた眉間の皺が甦った。
表示された電話番号に受信ボタンを押すと、ブルースはそれを軽く耳に押し当てた。
「もしもし?」
『ブ、じゃなかった社長ー!』
「…あー、良ければもっと小さな声で言って貰えるかな、ケント君?」
数メートル先の男にも叫びは届いたらしく、何事かと振り返るのが見えた。通話音量を急いで下げてから、低い声でブルースはクラークに言う。
『も、申し訳ありません!すいません今空港に着きました!』
「安心してくれ、私も今こちらに着いたばかりだ」
『良かった……!いえ、あの、すぐ迎えに参りますので!どちらにいらっしゃいますか?!』
「ロビーに座っている」
『全速力で行きます!』
――空港が破壊される。
落ち着いて来い、と返そうとしたが、エスカレーターを駆け上がる姿が目に入る。最後の1段でよろけた所を見るに、長い足が引っ掛かったらしい。慌てた様子で上り切ると、きょろきょろと周囲を見回している。
「…ケント君、喫茶店の横にあるベンチだ」
『え?あ、見えました!良かったー!』
足と同様に長い腕が、大きくこちらへ向かって振り回された。ロビーの視線を集めているのにも気付かないらしい。苦笑して小さく手を振り返すと、ブルースは携帯電話の電源を切った。鞄を持って立ち上がる頃には、クラークがあと数歩の距離まで迫って来ている。
「本当に申し訳ありませんでした!」
「時間的には丁度だよ。で、遅刻の理由は?」
「えーっと、30分前には着こうとして早く出たら、おばあさんがマンホールと猫でぎっくり腰が落っこちてるのを助けて」
「老婦人が腰を痛めたのと、猫がマンホールに落ちたのを助けた、という訳かな」
「…その通りです」
「少し落ち着いた方が良い」
硬い二の腕を叩くと、クラークはようやく周囲からの視線と笑いを悟ったのだろう。一気に首まで赤くなる。ブルースは以前、和食レストランで出された蛸を思い返した。
「では行こうか」
「……はい。あ、お荷物をお持ちします」
「自分で持つよ。殆ど空だ」
そういう訳には、と言い募るクラークを置いて、ブルースはさっさと歩き出した。
デイリープラネットがある市内へのアクセスは、大都会の空港なだけあって、極めて充実している。タクシー乗り場には小型から大型まで車が揃っており、中でも高級車が数台、常にVIPの為に待機しているのだ。だが今は閑散としていて、2人の他に人の姿は見えない。
「じゃあタクシーに」
「いや」
乗り場に走りかけたクラークの袖を掴み、ブルースは首を振る。
視線の先に停まっているのは、青と赤に塗られたバス。
「あのバスは?」
「ああ、あれは定期観光バスで、名所をざっと一巡りするんだよ」
「デイリープラネットにも着くのか?」
「うん。ちょっと時間は掛かるけどね」
周囲に人気がないと、普段通りの言葉遣いがお互いに口をつく。ただし万が一を考えて、小声にする事は忘れなかったが。
僕も良く乗ったなと、この街に来たばかりの日々を思い出している目で、クラークはバスを見つめている。
「そうか。…クラーク」
「ん?」
「あれに乗って行こう」
十中八九、この街の守護者を意識した色合いのバスに、当の本人を連れて乗り込む。その可笑しみが、何となくブルースの心を浮き立たせた。
「あれに、君が?!」
「時間はあるさ。…少し付き合ってくれるかな、ケント君?」
わざとプレイボーイの笑顔でブルースは振り返った。困ったように眉尻を下げていたクラークが、何度か瞬きをした後、ゆっくり頷く。
「…承知しました、ウェイン社長」
「結構」
座席はガラガラに透いていて、初老の夫婦が1組と、子連れの若い女性がいただけだった。
後ろの広い席は目立ちそうだったので、その前にある2人掛けの座席に陣取る。ブルースが窓際に座った。図体の大きな男が並ぶには、いささか窮屈だったが、他からの視線は感じないで済む。
――外でこんなに密着するのは、初めてだな。
他の乗客は全員、前の方に座っている。運転席からも見え辛い場所だろう。それでも、人前は人前だ。しかも公共の場である。
この姿の時はあくまで社長と社員だ。会って言葉を交わす回数さえ少ない。握手ならば覚えはあるけれど、それ以外の、そしてそれ以上の接触など、有り得ない。
ぴたりとくっ付いた肩から、クラークの体温が伝わって来る。彼にも自分の体温が伝わっているのだろうと、ブルースは思った。
バスがアナウンスと共に動き始める。揺れる度に、足同士が軽く触れる。広いタクシーでは味わえない贅沢を、ブルースは黙って享受し続けた。女声のアナウンスだけが、車内には響いている。何分も何分も、それは続く。何度も何度も、足や腕が触れる。
観光案内を続けながらバスは走る。だが、停車ボタンを押す乗客もいなければ、停留所に立つ人影もない。窓から差し込む日だけが、ゆっくりと車内を動いている。
バス独特の、咳き込むような揺れに慣れた頃、ずっと口を開かなかった事にブルースは気付く。乗ってどれほど経つのだろうとは思ったが、結局、時計には触れなかった。
やがて窓の外を、街路樹の葉が流れるようになった。いつもならばメインストリートに直行する道のりだったが、バスはゆっくりと右に曲がる。ふと、クラークが小さな欠伸を洩らす。
「退屈か?」
ほとんど吐息と変わらぬ声音で、ブルースはそう尋ねた。
「あ、いや、違うよ」
同じくブルースにしか届かない小声で、クラークが答える。
「昨日、噴火の鎮圧と救助に行っていてね……余り眠っていないんだ」
飛行機の中で流れていたニュースを、ブルースは思い起こした。イヤホンのスイッチも入れず、眠たい頭でただぼんやりと大画面を眺めていたのだが、言われてみれば彼の姿――もう1つの――があった気がする。
「…気付かなくて、すまない」
幾ら超人的な能力の持ち主でも、気疲れという事はある。クラークの睡眠は、むしろそれを回復する為に存在しているのだ。一晩中救助活動に勤しんでいたならば、眠たくもなるだろう。
そうなると狭いバスの中よりも、手足を伸ばせるタクシーの方が良いに決まっている。ニュースを見なかった事と、何よりクラークの状態を悟らなかった事に、ブルースは苦い思いを味わっていた。
「そんな、大した事じゃないんだから良いよ。謝らないでくれ」
それに、とクラークは続けた。
「外で、君とこんなにくっ付くの、初めてじゃないか」
眼鏡の奥の瞳が、僅かな照れを滲ませて笑っている。
「嬉しいんだ」
バスが停止した。若いカップルが乗り込み、初老の夫婦が降りて行った。ドアが閉まり、振動がかたかたと窓を震わせる。
「……私もだ」
流れ出したアナウンスに掻き消されるよう願いながら、そして同時に、クラークに届くよう望みながら、ブルースは呟いた。
視界の隅で、クラークが大きく目を見開く。ブルースは窓の外の、公園に視線を向けて言った。
「着く前に起こそう。眠ってくれて構わない」
「でも」
「良いから、とっとと寝ろ」
苦笑する気配がした。
移り変わる景色を眺めていると、小さな寝息が聞こえ始めた。窓に向けていた顔を、そっと前に戻す。目を閉じたクラークが、何かを考え込んでいる最中のように、俯いている。
かたん、とバスが軽く揺れた。その拍子に、頭がブルースの肩に凭れて来る。
「……っ」
起きるかと息を詰めたが、クラークは目を覚まさない。ブルースの肩に頭を預けて、夢の世界に飛んでしまったらしい。襟元に吐息が掛かる。熱いと思ったが、熱を帯びているのはブルースの方なのだろう。伏せられた、存外長い睫が、少しだけ震えている。広い唇はうっすらと開いていて、ブルースはそこから目が離せない。クラークを起こしてしまいそうな鼓動音が、頭の中に轟いていた。
バスが再び停車する。今度は観光客らしいグループがどやどやと入って来た。その様に少しだけ慌てて、怪しまれないよう、眠ったままのクラークに呆れた様子を取り繕った。
発車したバスは相変わらず揺れて、眠る彼の頭を小さく動かし続けている。私語の増えた車内では、もうアナウンスは聞こえない。大きな通りに入ったらしく、歩道からこちらを見上げる通行人の数も増えた。
――もし私がスピードスターだったら。
乗客にも、通行人にも気付かせないまま、クラークにキスする事が出来るのだろう。彼自身、キスされた事に気付かないかもしれない。知っているのはブルースだけだ。
フラッシュまででなくとも、それこそスーパーマンのような、目にも留まらぬ早さが欲しい。埒もないと自嘲しながら、それでもブルースはそう思った。
そっとクラークの指先に触れる。
バスが角を曲がった。デイリープラネットのシンボルが近付く。それでもブルースは、クラークを起こそうとしなかった。