ケイブを完全な静寂が支配する事は無い。太古の闇を有すると共に、蝙蝠の羽音と鳴き声、滝の音、コンピュータの声さえも、この洞窟は抱え込んでいる。
数日前から、そこにはハンマーの音や、ミシンの音が加わっていた。絶えず響く、と表しても過言ではあるまい。それらの先輩である蝙蝠達は、迷惑顔こそしなかったが、お返しと言わんばかりに毎夜ひどく鳴き立てている。
お蔭でケイブの中は、何時に無く騒がしい。しかし子の遊びを見守る親のように、ケイブは、そして闇は、何も言わずただ静かに広がっている。
「こちらで宜しゅうございますか、ブルース様」
その声と共に、とうとう音が止んだ。安堵する蝙蝠達の声も、“それ”を差し出された主には、寿ぎの言葉にしか聞こえまい。
薄明かりの中、“それ”に穴が開くのではと思うほど見つめると、ブルースはアルフレッドに向かって頷いてみせた。厳粛とすら言えるその仕草からは、日頃の腑抜けっぷりなど微塵も伺えない。やや疲労気味だったアルフレッドの胸にも、誇らしさが広がる。
「結構だ。流石だよアルフレッド。このデザインといい、この色合いといい」
「お褒めの言葉は、些か尚早かと存じます。これの真髄は、使って現れるものではございませんか?」
「…君の言う通りだな」
ふっと苦笑すると、ブルースは“それ”の真の機能を発揮させるべく、身を屈めた。緊張の連続が2人に襲い掛かる。だが幸い、第2の関門も“それ”は突破したようだ。
「質感もバランスも、悪くない」
独り言のようにブルースが呟く。彼はそして、ケープを翻し、ある場所へと向かう。機械の脇に備え付けられた、最先端の技術を集めた代物だ。その上へ慎重に足を下ろすと、ブルースはアルフレッドに目で合図をした。
とうとう、この時が来たのである。費やされた努力が実るか、それとも藻屑と消え果るか――アルフレッドの額には、僅かながらも汗さえ浮かんでいた。
忠実なる執事は、震えそうになる手で機器の一部を抓み、主人の頭へとゆっくり下ろしていった。
現れた数値を、細心の注意を払って読み取る。微かであろうとミスはミスだ。その事を、アルフレッドもブルースも良く知っている。
「どうだ?!」
紳士に似合わぬ焦燥を見せながら、ブルースは叫ぶ。だがその頭は一寸も動かない。
アルフレッドは息を呑み、主からの下問にこう答えた。
「6フィート5インチ――195.5センチメートルでございます」
「よし!」
ブルースは拳を突き上げ、すぐさま身長計から飛び降りる。己が目で数値を確認した彼は、アルフレッドを力一杯抱き締めた。
「アルフレッド、アルフレッド――君は何て素晴らしいんだ!まさか 本当に作ってくれるなんて思わなかった!最高だ!!」
「滅多に無いお褒めに預かり、光栄至極に存じます」
言葉こそ辛辣だが、しかしアルフレッドの目にも、ブルース同様うっすらと涙が浮いている。主従は熱く固く抱き合うと、再びその数値に目をやった。
「間違いないな」
「間違いございません。ブルース様こそ、仰った数値に間違いは」
「僕の記憶力を疑うのか?」
わざとらしく片眉を上げたブルースに、アルフレッドは首を振った。
「世界最高の探偵と謳われる方の記憶力を疑うなど、とんでもない事でございます」
「宜しい」
厳しい顔付きで答えてから、ブルースは再び笑顔になって数値を見つめる。その青い瞳に燃える情熱には、誰ひとりとして太刀打ち出来まいだろうとアルフレッドは感じた。例え、メトロポリスの空飛ぶヒーローであっても、だ。
「スーパーマンも私も、履いているブーツのヒールは1インチだ。結局1インチの身長差は縮まらん。だが、君の作ってくれた、これならば――」
ブルースは履いていた“それ”を脱ぐ。いつもよりも2インチ高いヒールを有した、黒いブーツを。
「奴に勝てる」
「左様でございます。1インチ、ブルース様はあの方よりも高みに立たれるのです」
「苦労を掛けたなアルフレッド。見た目は普段と変わらず履き易く、かつ1インチ背が高くなるブーツを作れだなんて」
「骨折りは私の楽しみでございますよ。そのお姿を見るだけで、微力を尽くした甲斐があったと感じ入るのです」
「アルフレッド……!」
ウェイン邸の主は、親代わりの執事と何度目かの抱擁を交わした。
「待っていてくれアルフレッド、私があの鋼鉄の男を見下ろす様を!」
「はい、ご報告を楽しみにお待ち申し上げております」
1インチの壁を突破した2人に、蝙蝠達が祝福の羽音を鳴らした。
この都市には、夜があっても闇がない。例えあったとしても、ここの住民は闇を恐れず立ち向かう。煌びやかなネオン。華やかな灯り。派手やかながらも下品ではない、温かな色合いが、ひどくブルースの癪に障る。
やり辛い都市なのだ。街並みも、住民も、そして守護者も。
「やあブルース」
「その名で呼ぶな」
本気になれば、ブルースの知覚可能な範囲を超えて、一瞬で目の前に現れる事だって出来る。だがクラークは律儀にも、毎回、ブルースが知れる範囲内の速さで現れた。それが例えぎりぎりの範囲内であっても、むしろそれだからこそ、気を遣っていると分かる。
「君の手を煩わせる必要は、無いんだけど」
「それは昨日も聞いた。だが相手はゴッサム市民だ」
「元、ね」
「今も、だ」
どちらかの都市で犯罪を行った者が、どちらかの都市に逃げ込む。良くあるパターンだ。警察の目も、彼ら同様縄張りに厳しいヒーローの目もすり抜けてしまう。
だが今はその抜け穴も封じられている。スーパーマンとバットマンの出会いと、喧嘩とそこから生まれた理解、そして友情――と呼べるのかどうか、2人は今も疑っているが――によってだ。
「なら行こうか」
「待て」
つい、と浮かんだクラークのケープを掴み、ブルースは首を振った。
「作戦がある。話したいので、ここに下りてはくれないか」
頼み文句じみた言葉も、作戦の内だ。クラークは案の定、目を瞬いたが、やがて戸惑いが微笑に代わる。
「…君も、随分と優しい言葉遣いになったね」
「ご不満が?」
「いいや、嬉しいよ」
屈託のない物言いに、妙な照れをブルースは覚えた。ケープから手をするりと離せば、途端にクラークが地面へと下りて来る。
――さて、どう反応するか。
逆転した1インチの差に気付くか、はたまた気付かないか。どちらにせよ、そして1インチにせよ、勝利の時は近い。赤いブーツの踵が地面に触れ――
「ああ、言い忘れていたんだけど」
クラークは莞爾と笑った。
「君が来ると聞いて、新しいブーツを履いて来たんだよ。いつもより2インチ高いヒールのね」
「アルフレッド!」
「如何なさいましたか、ブルース様」
バットマンの格好もそのままに、ケイブからブルースが駆け上がって来る。目を丸くしたアルフレッドへ、涙に煌く目をはっしと据えてから、ブルースは叫んだ。
「ブーツは諦めた!今度はマスクだ!!」
「…申し訳ありませんが、昨今とみに理解力の衰えたこの老人に分かるよう、もう1度仰っては頂けないでしょうか」
ブルースはマスクを脱ぎ、テーブルの上へ叩き付けるようにして置いた。
「ヒールを高くした所で、あいつも対抗して来るに決まっている!そうなればバランス能力の悪化は必定だ。ならば私は、あいつが持てないマスクを改造する!」
その言葉にようやくアルフレッドは頷いた。
「つまり、今回の身長差逆転作戦は失敗と」
「頼むからそれは言うな」
「畏まりました。ただちに口へチャックを縫い付けましょう」
「口の前に、まずこの耳だ」
手袋に包まれた指を、ブルースはマスクへと向ける。
「伸ばしてくれ」
「恐れながらブルース様。耳を伸ばすと言う事は即ち、ラビットマンと紙一重になるという事ではございませんか?偏見かとも存じますが、蝙蝠に比べて兎は恐怖される対象ではないように見受けられます」
「その点はデザインでカバーだ。兎に見えないよう、威嚇的にすれば大丈夫さ」
そうだ、とブルースは手を打ち、ドアへと駆けて行く。
「どちらへ?」
「これから案を起こして来る!待っていてくれ!!…クラークの奴、今度こそ見ていろ……!」
声と共に足音が、アルフレッドの耳に届き、やがて消えた。
それを待ってから、アルフレッドはマスクを手に取り、やがて重たい溜息を吐き出した。
その後、高い踵のブーツと長い耳を持ったバットマンが、ジャスティス・リーグのメンバーとして知られるようになった事は――言うまでもない。