Tシャツと私

 宇宙空間に浮かぶヒーロー達の要塞では、今日も赤い閃光が走り回っていた。
 彼が通る度に、ケープの裾が翻る。慌しさがうつったようなその動きに、ブルースは苛立たしげに眉を寄せた。読みかけの新聞を置き、紅の軌跡が飛び交う背後へと振り返る。
「フラッシュ」
「何?」
 磨き抜かれた床の上を、真紅のブーツが滑った。数分振りに目で見て取れるようになった最速のヒーローへ、ブルースはわざとらしく溜息を洩らした。
「整備は落ち着いてやれ。失敗したらどうする?」
「大丈夫だって。スピード上げたからってミスする男だと思う?」
「ああ。速度を出さない時でも不安だからな」
「うわ、ひでぇ!」
 大仰に頭を抱えた青年から、ブルースは視線を新聞へと移す。それと同時にフラッシュがまた走り出した。ブルースの眉間の皺が更に深まる。だが不機嫌が限度を上回る前に、椅子の背もたれに赤いグローブが乗った。
「終わったぜ!」
「……確認してくる」
 早いな、という当たり前の言葉を飲み込んでからそう言うと、フラッシュは唇を突き出した。何やら持ち前の早口で文句を言っているが、聞こえない事にしてブルースは立ち上がる。途端にフラッシュは空いた椅子へ座った。
「じゃあオレも世界情勢の確認しようっと」
 今度は聞こえよがしに呟かれたが、それでもブルースは振り返らず、フラッシュの点検していた機械へと歩み寄る。一瞥した所さしたる不備は無い。内部はどうかと外装に手を掛けた瞬間、フラッシュが叫んだ。
「大変だバットマン!!」
「どうした!」
「これ!」
 さては世界に異変か。血相を変えて駆け付けたブルースに、フラッシュは新聞を勢い良く開いて見せた――『今週のヒーロー』という連載記事を。
「スーパーマンがTシャツになるかもって!凄くねぇ?!このメーカー天下のブランドだぜ?!流石イタリアって感じだよな!」
 フラッシュの瞳が火花のように輝いている様子は、マスク越しでもはっきりと分かった。
 そして自分の瞳が、稲妻のように燃え始めるのも、ブルースには良く分かった。
「……Tシャツだと?」
「あ、もしかして知ってた?おいおい教えてくれよ!オレ1人で興奮して馬鹿みたいじゃ」
「フラッシュ」
 震える手を、ブルースはフラッシュの両肩に掛けた。え?と見上げて来る彼に微笑みかけながら、ゆっくりと指先に力を入れる。勿論、肩の急所にしっかりと当てて、だ。
「言いたい事はそれだけか?ん?」
「い、痛い痛い痛いって!何で怒ってんだよバッツ、オレがいつ変な事したってんだ?!」
「たった今だ、この人騒がせ小僧!」
「小僧って呼べるほどアンタもオッサンになっ…いっ、だから痛いってー!」
 ブルースの腹がようやく収まり、記事に目を通す余裕が出来たのは、フラッシュに言い付けたモニター機器の掃除が終わる頃だった。



「…で、どうなんだ?」
「オファーが来たのは確かに真実だけど」
 絞った照明がクラークの輪郭を淡く浮かびあがらせる。軽く肩を竦めてから、彼はブルースの横たわっているベッドに腰掛けた。大きさはキングサイズなのだが、合計200キロほどの重みを受けると、流石に小さな悲鳴を上げる。
「恥ずかしくて断ったよ」
「牛乳の広告には出られても、ブランドの図柄は無理か?」
「僕が実際に着て広告する、なんて言われるとね」
「それは」
 確かにクラークには無理だ。幾ら無敵の男とは言え、向き不向きはある。納得して頷くブルースに、クラークは苦笑して手を伸ばして来た。
「君なら楽勝なんだろうな」
「どう言う意味だ?」
 髪を撫ぜる指先から、逃れるように頭を振ってブルースは問う。クラークの手は抵抗を上手くあしらい、髪からこめかみ、耳へと流れていった。耳朶をかすめた感触に、思わずブルースの肩は震える。
「堂々としている、って褒め言葉だよ。…でも、もし僕のTシャツが出来るなら」
 そこでクラークは額にキスを落とした。離れた顔が悪戯に笑う。
「大事にしてくれるかい?」
「…私のTシャツが出来たらどうする?」
「勿体無くて着れない。クローゼットに仕舞っておくよ」
 シーツの上にクラークが身を横たえた。重みと熱を意識しながら、ブルースは彼の首に手を回す。
 そして厚い肩に顔を埋め、睦言めいた戯言を囁いた。
「私も仕舞う。…お前の柄なんて、派手過ぎて人前では着られない」
 ブルースの耳元でクラークが低く笑う。
「じゃあ2人きりの時は着てくれるかい?」
「…悪趣味だな……」
 その言葉を最後に、会話は夜の中に溶けた。



 副社長室へ入ると、ルシウス・フォックスが待ち構えていた。驚かせようと思ったのだが、誰かが既に知らせていたらしい。
「やあ」
「お久し振りです。メトロポリスへの出張はいかがでしたか?」
「相変わらず晴れ続きで鬱陶しかったよ。ああこれ、皆と一緒に分けてくれ」
 持っていた菓子の包み――中身はメトロポリス名物のスーパーマン・クッキー――を手渡し、ブルースはソファに腰掛けた。向かい合ってルシウスも座る。控えていたルシウスの秘書は、菓子折り片手に奥へと引っ込んでいった。数分も待たぬ内にコーヒーが出て来る事だろう。
「早速ですが新たな事業展開に向けて、総会を開こうと」
「ああ良いよ。君の好きなようにしてくれ」
 ブルースは手を振った。秘書にも聞こえるようにわざと大声で言う。ただ大富豪の微笑は浮かべなかった。ここにいるのはルシウスと自分だけだ、表情までは作る必要が無い。
「承知しました。…ですが、何かアイディアは?」
「アイディアか」
 無いよ、と言いかけ、ブルースは口を閉じた。ルシウスは辛抱強く待っている。
 彼に向かってブルースは微笑んで、再び唇を開いた。
「特にこれと言った物はないけど――でも」
「はい」
「キャラクターTシャツなんてどうかな?」



 ウェイン社から発売されたスーパーマンTシャツはその後、僅かな数量と何者かの買占めによって、キャラクターグッズ史上に伝説を刻んだ。

超人には「うちの幹部にファンがいて」と説得。
持っている事については「その幹部が礼に1枚くれた」と言い訳。

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