ペトリコールの匂いが消えて15分。水分を含んだタイツがべったりと素肌に付着している。夏場を思えば何ともないが、僅かな不機嫌を呼び起こすには十分だ。
首を横に動かせば、濡れそぼったゴッサムが一望出来るだろう。常より厚みを増した雲が街の上に留まり、穏やかで冷たい雨が、街へと降り注ぐ光景。だがバットマンの目は、守護する土地に向けられてはいない。
「もうじきゴッサム市警が来る」
後ろ手に掛けたバットカフスが、鈍い銀色と澱んだ赤に光っている。早くその赤が流れまいかと、ブルースは思った。
「お前がアーカムに戻らないよう祈っている、ジョーカー」
「へっ」
緑色の髪はブルース同様に濡れそぼって、常より鮮やかに見えた。なまなましい真紅の唇が更に歪み、バットカフスに付いている赤と、同じ色の液体を吐き出す。バットマンのブーツに届く前に、それは出来立ての水溜りに飛び込んだ。僅かな波紋が、雨で作られた波紋を揺らす。
「俺は無実の、善良な一般市民だ。蝙蝠の格好をした馬鹿野郎が、たまたま会った俺を半殺しにしやがった――ってな弁論はどうだい?」
「無実?たまたま出会った親子に、笑いガスを吹き付けた男が?」
「あいつらは俺を見て悲鳴を上げたんだぜ?精神的苦痛を受けた!暴力を振るわれたんだ!」
だから、とジョーカーはバットマンを見上げ、笑う。
「正当防衛さ!」
肩と手の揺れに合わせて、バットカフスが音を立てた。まるで笑うように。ジョーカーの笑い声よりも、それはブルースの耳に纏わり付く。
「笑うな」
掠れた甲高い声が雨音を消し去る。
被害者の親子は傘を持っていた。1つは子ども用の黄色い傘、1つは長い軸をした赤い傘。どちらも道路に投げ出されていた。もう2度と、主の手で開かれる事はない。
「笑うな」
それでもカフスは鳴る。足を一歩踏み出す。そうすると耳障りな音が消える。もう一歩、更に一歩、足を動かす。
彼らは傘を使えなかった。ペトリコールの匂いが消える前に、傘は道路へと横たわった。
「しかし、ひでぇジョークもあったもんだ」
ジョーカーが低い声で言う。座り込んでいる男から三歩離れた位置で、バットマンは足を止めた。水溜りにブーツが浸かっている。
「あいつら、傘を持っていたんだぜ。“ねえママぁ、もう開いちゃダメなの?”、“まだよダニー、傘は雨が降ってから”、“でも早く使いたいよママぁ、ねえぇ”――自分達が雨の前に死ぬって事も知らずによ!」
飛沫が上がった。濡れたブーツの爪先は細長い顎に当たり、その口から再び、赤いものが飛んだ。汚れた襟を掴む。持ち上げる。空いた手で拳を作り、既に腫れていた頬へと叩き込む。白い破片が雨の中に消えていった。
「お前が殺した」
黄色い傘は道路の埃に汚れていた。それでも布地は真新しく、雨を遮った事がないのだと見て取れた。
「お前が殺したんだジョーカー。彼らを。雨が降る前に」
頬骨の尖った顔をなおも殴り続ける。その度に赤が飛ぶ。バットカフスに付いた赤はまだ流れない。使い込まれた赤い傘が脳裏を過ぎる。
がっくりとジョーカーの頭が揺れた。襟を放すと、ばちゃりと音を立てて水溜りに沈む。
荒い呼吸が止むまで、ブルースはジョーカーを見下ろしていた。
雨はやがて、赤に染まった道化師の顔を、洗い流すのだろうか。息と思考が平静さを取り戻してから、ブルースは踵を返した。
「なあ……」
三歩目に聞こえた声。ブルースは背後へ首を向ける。ジョーカーが切れた唇を動かす。
「知ってるかい、ベイビー?……ゴッサムの雨は、血の味がするんだぜ」
深い笑みしか浮かべられない筈の顔が、微笑したように見えた。
今度こそジョーカーの瞼が閉じられる。サイレンの音も聞こえ始めた。グラップルガンを取り出して、ブルースは屋上の縁まで身を進める。
ビルの谷へと踊り出す前に、僅かに舌を突き出し、唇を舐めた。
僅かに錆の臭いがした――ような、気がした。
赤と雨と、虹
強まった雨に押し流されはしまいかと、どこか他人事のように足元を見下ろす。壁から突き出たガーゴイル像の後頭部と、昼間だというのに薄暗い街並みが視界に入った。ここから足を滑らせれば、トマトのように潰れるに違いあるまい。
――赤。
ブルースは軽く頭を振る。
ジョーカーは結局、精神の疾患が認められ、アーカムへと戻っていった。怪我が治れば再び外へと出て来る。またあの笑い声が響き、道路に、開かれる事のない、或いは閉じられる事のない傘が横たわるのだろう。
事件の起こった道路がどこか、ここからでは区別が付かない。ゴッサムではありとあらゆる道で事件が発生する。1つ1つの差異を求めても仕方ないのだと、そう囁く声があって、それでもブルースは視線を動かした。街に降る雨の一滴一滴が、零れ落ちる真珠のようで、ブルースは手に掬い取れないかと身を乗り出す。
「危ないよ」
声と共に、太い腕が視界を上下に割った。
「落ちたらどうする気だい?」
「…ワイヤーがある」
そう答えてから、ブルースは一歩後ろに下がった。横に立つ、いや、浮かぶ鋼鉄の男は、なおも遮るように腕を伸ばしたままだ。ブルースと異なり、曝け出されている黒髪はびしょ濡れで、いつもより前髪のカールも強い。
「メトロポリスも雨か?」
像の上から床の上へと、足を移した。いいや、とクラークが答える。
「向こうは曇り空だった。この街に来て驚いたよ」
「ここ3日は降ったり止んだりの繰り返しだ。もうしばらく続くだろうな」
ブルースの横へとクラークが移動する。小さな水音を立てて、彼は屋上に着地した。そのケープの裾が一瞬、重力に戸惑うような動きを見せる。
――赤。
「…ブルース?」
ケープに見入っていたブルースは、はたと顔を上げる。微かに眉根を寄せたクラークの顔が、近くにあった。
「何でもない。それより、例の件についてだが」
「ああ」
つい先日、メトロポリス有数の薬品会社から、幹部の1人が誘拐された。その身と引き換えに提示されたのは、ある薬品を譲り渡す事――。
指定されたのは、最近、人体への危険性が発見され、製造や販売を禁止された薬だった。不運にもその薬品会社には、数年前のストックが残っていたという。それをそっくり譲り渡せ、という要求だ。ろくな事に使う気がないのは明らかだった。
引渡しはスーパーマンによって阻止され、人質も無事に発見された。しかし取り押さえた犯人の言によると、彼らはゴッサムにいるグループに雇われたのだという。
「前科持ちが中にいたお蔭で、探すのは楽だった。この近くの廃ビルにまだ住んでいる」
「随分と悠長じゃないか」
「どうも裏に誰か付いているようだな。指示を待っているらしい」
おそらく切り捨てられるだろう。そう思いながらブルースはグラップルガンを取り出す。
「案内しよう。来い」
返事も待たずに、ブルースは雨の中へと身を躍らせた。
水の混じった空気が顔を打ち付ける。だが風が無い分、飛ぶには楽だった。普段より重みを増したケープが翻る。一呼吸遅れてから、似た音が斜め後ろから聞こえた。クラークはちゃんと付いて来ているらしい。焦れて、ブルースを抱えながら飛ぼうとした事もあったのに。
甦った記憶に微笑が零れかけるが、ブルースは唇を引き締めた。求める方向へとワイヤーを投げ、迫るビルを手の動き1つで避ける。
君を見ていると心配でしょうがない、と溜息交じりにクラークは言っていたが、今もそう思っているのだろうか。ブルースが振り返れば、きっと青い顔をして、飛ぶ事に集中するよう叫ぶに違いあるまい。
今度こそブルースの唇が綻ぶ。その隙間から、雨が口の中に入った。
『知っているかい、ベイビー?』
ブルースは再び唇を引き結んだ。だが舌の上には、確かにジョーカーが言った通りの味が残っている。
『ゴッサムの雨は、血の味がするんだぜ』
「――黙れ」
「何か言ったかい?」
つい、とクラークが傍らへと飛んで来る。左に接近していたビルを避けてから、ブルースは首を振った。
「もうすぐだ。もうすぐ、着く」
バッタランが宙を舞い、男の手首に突き刺さる。その手から銃が転がり落ち、床にぶつかった拍子に暴発した。あらぬ方向に飛んだ弾丸を、鋼鉄よりも強靭な掌が受け止める。その間に、銃を落とした男の首筋を殴りつけ、気絶させた。
最後の1人が泥のように崩れる。ブルースは周囲に目を配るが、クラークは大丈夫だと請け負ってみせた。
「これでお終いだよ。誰も隠れていない」
犬笛さえ聞き取れる耳だ。念の為にもう1度、狭い室内を見渡してから、ブルースはクラークに頷いてみせる。
「行くか」
「うん」
突入する前に、ゴードンには連絡を入れておいた。ロープで男達の腕を結わえてから、2人は外へと出て行った。
昼間ではあるが、ここ一帯は下水工事の失敗で、ゴーストタウンと化していた。人目を恐れる心配は無い。突入前にもクラークに傍観者のなしを確認させたのだ。雨も、バットマンの姿を隠すのに、一役買ってくれたようである。
歩きながら、ブルースはブーツの爪先ばかりを見ていた。これで犯人の顎を蹴り上げた。ジョーカーにしたように。赤いものが付いていたが、滝のように強まった雨に打たれ、すぐ消えた。
――ああ、だからか。
不意に何もかも飲み込めたような気持ちが、ブルースの心を浸す。
善良な市民の、ヴィランの、小悪党の、ヒーローの血が、この雨に押し流されていくのだ。だから――
ブルースは微かに舌を伸ばし、濡れ出したばかりの唇を舐め取る。
血の味をした雨が降り注ぐ。そんな街に血が流れない日は来るのかと、そう思うのも滑稽な気がした。耳の奥でジョーカーの笑い声がする。それが次第に、雨のように全身を包み込むような気がして、ブルースは頭を振った。
いっそ降る雨すべてが赤に染まれば良いものをと、ブルースが考えるのも知らぬ顔で、澄明な雨は2人の足音も溶かしていく。
「こんな雨だと」
クラークの声に、ブルースは視線を動かした。
日焼けした頬の感触を、楽しむかのように水が流れている。ブルースより薄い唇は、ほんのり微笑を帯びていて、そこに打ち付ける雨など物ともしていない。その姿にブルースは刹那、見蕩れた。
「いつ晴れるんだろう、なんて気持ちになるよ」
大きな手が、額に掛かった前髪をかき上げる。言葉とは裏腹に、心地良さ気に目を細めて、クラークは空へと顔を向けていた。
「来ないかもしれない」
「え?」
クラークの目が瞬いた。全世界を探しても、この色をした空など容易には見付かるまい。だがそれでもクラークの瞳は、遥か遠い日に、どこかで見上げた夏の空を思い起こさせる。
その空からは、血の味がする雨など、降らないに決まっている。
「本当に、もう2度と、晴れる日など来ないかもしれない」
何を言うのかと自嘲しながら、ブルースは口を動かした。クラークがまた目を瞬かせる。濡れた唇が動こうとするのをブルースは見つめた。
「…それじゃあ、傘が手放せなくなるね」
思わずブルースは吹き出し掛けた。
「そうだな。タイツも耐水用に替えなければ」
「雨が大好きなヴィランも出て来るんだろうな」
「新たな対策が必要になるかもしれん」
「大忙しだ。――ブルース」
そう呼び掛け、クラークが足を止めた。ブルースも立ち止まる。
真剣な表情をしてから、クラークは戸惑うように眉を寄せ、しかし最後はいつもの笑顔を浮かべた。
「晴れた日が来るのを信じられなくても、それでもやっぱり、いつかは晴れる時が来るよ。そうなったら虹も見られる」
「……クラーク」
「雨がどれほど続くか分からないし、君に何があったかも知らないけど、それだけは言えるよ」
照れたのか、クラークが頬を掻く。そうしてから唐突に顔を上げた。
「ああ、雨足が弱くなって来たな。そろそろ止みそうだよブルース?」
クラークが顔をいつもの位置に戻す。その瞬間、ブルースの指先は、クラークの顎を捕らえた。接近した青い瞳と、掛かった息に、僅かな躊躇いが心に過ぎる。
その躊躇いが制止へと発展する寸前、ブルースは、薄い唇に自分の唇を押し当てた。
鋼鉄のように冷たく硬いかと思っていたが、ずっと柔らかで熱い。そして何より、あれほど雨に打たれ、濡れて湿っていると言うのに、その唇から血の味はしなかった。
だがすぐにブルースは顔を離した。顎からも手をどける。大きく眼を開いたクラークが視界に入った。
――私は、何を。
その驚きを見た途端、後悔が追い付いて来る。相手は年来の仲間であり、親友であり、同性だ。ブルースは数歩、後ずさった。
「……クラーク、すまな」
謝罪の言葉を告げ終わる前に、クラークが今度はブルースの顎に手を掛けた。
引き寄せられたのと、唇が覆われるのとがほぼ同時だった。何をされているのか気付くまでに時間は要ったが、おずおずと触れて来た舌へ、ブルースはゆっくりと唇を開く。誘うように、挑むように。
雨の隙間を縫って、唇と唇の間で発した、濡れた音だけが耳に届く。息を吐くべく唇を離す度に、水滴が口の中に入り込んだ。雨と唾液で濡れた唇をぶつけ、激しい口論の時と同じく舌を動かす。いつの間にかクラークは強くブルースの肩を掴んでいて、ブルースもクラークの腕を握っていた。
幾度と無く唇を離し、そしてまた口付けを再開する。飽きもせず2人は唇を寄せていたが、やがてその間隔は短くなり、途切れた。
ずるり、とクラークの手が、肩から離れた。僅かに遅れて、ブルースの手もクラークの腕から離れていく。やがて2人の間には、普段話す際よりもいささか大きな空間が出来上がった。それはおそらく、気まずさと沈黙が座る為の場所だ。
ブルースは無言でベルトに触れ、スイッチの1つを押した。クラークは視線をあちこちにさ迷わせていたが、やがて、独り言ともつかぬ呟きを口にする。
「西の空が、明るくなって来た」
つられてブルースは西の空を振り仰ぐ。濃い灰色だった雲は、今はもう大分薄い色合いになって流れている。雨の勢いも随分と弱まっていて、細い糸も同然だ。それだけ長い間、キスに集中していたのだろう。
――誰かに見られる可能性もあった。
何故、どうして、よりにもよって昼間から、こんな事をしてしまったのか。数分前の自分を問い詰めたいと思いながら、ブルースは路地裏から聞こえ始めたエンジン音に、耳を澄ませる。
「あの音は……」
「バットモービルだ」
パトカーとは明らかに異なる音を立て、バットマンの愛車は2人の眼前で停止した。濡れて光沢を増した車体を、愛しげに1度撫でてから、ブルースはドアを開く。
「では、私は帰る」
ケープの裾に注意しながら乗り込むと、突っ立ったままのクラークに、ブルースはそう言い放った。どんな別れの挨拶を交わしていたのか、靄が掛かって思い出せない。
「あ、ああ、気を付けて。僕もメトロポリスに帰るから」
少しだけ上ずったクラークの声に、無愛想に頷き返してドアを閉めた。大きく身震いをしてバットモービルが走り出す。バックミラーに映ったクラークは、右手をそっと唇に当てていた。その姿が徐々に遠くなる。
ゴッサム市警のパトカーと、鉢合わせにならぬような進路をナビが出す。指示通りに角を曲がった瞬間、ブルースの頬に、さっと紅色が捌けられた。
一瞬ぶれたハンドル操作に従い、モービルは路傍のゴミ箱へと突撃していく。
「!」
慌ててブルースはハンドルを切る。しかし、がこんと悲鳴を上げて、擦れたゴミ箱の1つが車道に放り出された。思わず舌打ちして、ブルースはハンドルに齧り付く。
――クラークにキスした。
――彼とキスした。
きっとひどく弱っていたから、誰かに縋りたかったからだと、ブルースは何度もそう考え、その度に否定する。乱暴にハンドルを操り、アクセルを踏む。
――クラークも、私に、キスした。
「……っ」
雨の味を確かめた時と同じく、ブルースは舌を伸ばし、唇を舐めた。そこを味わった舌や、吸い上げた唇の感触が甦り、体の内側を苛み始める。
血の味は、矢張りしなかった。
「雨が止み始めたようでございますよ」
窓辺に立ったアルフレッドが言う。洗濯物の危機に悩まされていただけあって、その声は若干明るい。
「そうか」
コーヒーカップを机に置いて、ブルースも彼と同じ方向を眺める。確かにもう雨の軌跡は伺えない。寝不足気味の目の仕業かとも思ったが、緑の濃くなったウェイン邸の庭へと、微かながらも日が差し込んで来ている。
「今宵からは、湿った“夜会服”で悩まされずに済みそうですな」
「あれは外に干す訳じゃないんだろう?」
「真におっしゃる通りでございますが、雨が降れば外でも内でも湿気が増すものです」
「乾燥機が」
あるじゃないか、と言おうとして、ブルースはコーヒーと共に飲み込んだ。バットスーツが果たして乾燥機に入れて良いものなのか、今一つ分からなかったからだ。
「何かおっしゃいましたでしょうか?」
「いや、何でもない」
そう答えてブルースは、膝の上の本に視線を落とす。残す所あと3ページとなった本は、さしたる余韻も残さぬままラストを迎えた。もう1冊読みかけの本があった筈だと、ブルースは本を片手に立ち上がり、自室へと向かった。
廊下を渡りドアを開く。ベッドの枕元に置いてある革表紙に目を留め、そこへ歩み寄り――ふと気配を感じて顔を上げる。
大きな窓に、赤いケープの裾が踊った。それから赤いブーツの爪先が現れ、次いで、青いタイツが外のテラスに着地する。一息を吐いてから、クラークがこちら側へと顔を向ける。ブルースがいると思わなかったのだろうか。昨日と同様、目が大きく見開かれた。
「……」
躊躇わずに、ブルースは窓へと歩み寄った。そっと鍵を、そして窓を開ける。僅かにしか見えなくなった雨は、それでもまだ名残惜しげに、か細く降り続けていた。
「雨の中を飛んで来たのか?」
じっとりと濡れた青いタイツに目を走らせ、ブルースは尋ねた。クラークが忙しなく視線を動かせてから、頷く。
「うん。それなりの速さで飛んだら、思ったより濡れてしまったよ」
「そうか」
――何かあったのか?
だが口に出せば、問い詰めるような語気になる。そしてその問いが、昨日の行動を思い起こさせるのが嫌で、ブルースは疑問を押し殺した。
「君に」
クラークが口を開く。その肩口から、雲の割れ目が見える。
「…虹が出たんだ。ああ君に教えなきゃって思って、気付いたら、空を飛んでいた」
そこまで言うと、クラークは唇を綻ばせた。
「突然ごめん。その、おかしいとは自分でも考えたんだけど…止まれなくて」
「……虹が」
シャツを通して染み込む、冷えた外気を意識しながら、ブルースは囁くように聞いた。
「どこに出たのか、教えてくれないか?」
雨音はもう聞こえない。雲間から差し込んだ陽光が、クラークの赤いケープを照らす。傘の色とも、血の色とも違う赤。まだ現れぬ太陽の色。
言わない方が良いと、もう1人の自分が耳元でがなり立てている。だがブルースは無視して、クラークの唇から言葉を押し出させる為に、口にした。
「それとも――連れて行ってくれるとか?」
笑ったつもりだが、頬が妙に強張ってしまった。きっと人生最悪の微笑だろう。
クラークはしかし、とびきりの笑顔になった。目を輝かせ、頬に赤味を浮かべ、そして少年のように、大きく首を頷かせる。
「うん。連れて行くよ。案内する」
行こう、とクラークが手を差し伸べる。
――アルフレッドに何も言っていない。
だが彼なら、開いた窓やブーツの跡から推測してくれるだろう。すぐ行って帰って来るだけだと自分に言い聞かせ、ブルースはクラークの手を取った。
「しっかり捕まっていて」
「ああ」
重力に囚われない世界が、ブルースを迎える。靴から地面の感触が消えた。支える為だろう、クラークが腰に、空いた手を回して来る。ほんの一瞬だけ体が強張った。気付いたのか、すぐに手は宙をさ迷う。
「……」
どちらも揃って、空へと視線を逸らす。再び、今度はゆっくりと、手がブルースの腰に触れた。
飛ぶのは未だに慣れないが、見下ろす風景はひどく美しい。土と緑の色、屋根の色、全てが雨で濡れていて、微かな陽光に煌いている。まだ僅かに降り続ける雨が、それらと同じようにブルースの髪や肩を湿らせた。
「傘を持ってくれば良かったかな」
「平気だ。寒さも感じない」
「本当に?」
「本当だ。嘘を吐いてどうする?」
いや、とクラークが首を振った。カールした前髪がその拍子に揺れる。
「君は我慢強いから、辛い事だっていつも隠してしまうだろう?お蔭で僕にも疑う癖が付きそうだ」
「お前が?」
思わずブルースは笑った。
「疑い深いスーパーマンか。似合わないぞ」
「僕は本気だよ」
さっと吹いた冷たい風が、2人の頬を撫でた。
「昨日の事も、何か裏があるんじゃないか、って思ってしまう」
「……」
豆粒状のウェイン邸を見つめながら、ブルースは呟いた。
「そうだったら良かったのにな」
「……」
腰に回された手に、僅かな力が篭った。
「ブルース」
「何だ?」
「今日の虹はすごく大きいんだ」
「…そうか」
いつも通りの声でクラークは喋り続ける。
「もう少し飛べば見えて来ると思うけど、ちゃんと橋の形になっていてね。足元もしっかり見えていた」
「珍しいな」
「だろう?で、折角だから、その足元まで行こうと思うんだけど、それで」
眼下を鳥が飛んでいく。頬に張り付いた髪を撫で付けてから、ブルースは、息を整えているクラークの顔に焦点を当てた。
「それで?」
「そこへ着いたら、その――」
2人の他には誰もいないのに、クラークの声はひどく小さく、掠れていた。
「昨日と同じ事をしても、構わないかい?」
夏の空に、自分の顔が映っている。他の何者でもない、自分の顔だけが。
ブルースは、掴んでいたクラークの腕を、静かに手放した。
「構うも、構わないも」
1度、小さく息を吸い上げる。
「昨日、あんな事になったのは私からだろう。それにお前が便乗、いや続けただけで、その言い方だと、まるで私が悪くないとでも主張しているようだぞ?…だから、要するにだな、クラーク」
「うん」
空の色をした瞳が、不安げに揺れている。その首へと手を回し、ブルースはクラークが驚く前に、答えをぶつけた。
「…ここでするのは、嫌か?」
「………全然、嫌じゃないよブルース」
震える声を発した唇が、ブルースの唇に重なった。
昨日に比べて増した熱に、目眩がする。思わずぎゅっと瞼を閉じてから、ブルースはクラークの舌に自分のものを絡めた。角度を変える度、矢張り昨日と同じように、雨が口の中へと入り込む。
――もう、血の味がする事はない。
水気を含んだクラークの髪に、指を差し入れながら、ブルースはそう思った。
唇も舌も痺れそうな時間の後、見えた虹は既に半分が掛けていた。
「…綺麗だったんだけどな」
残念そうにクラークが肩を落とす。その原因は多分に自分にあるのだと、自覚しながらもブルースは厚い肩を優しく叩いた。
「この次を待てば良いさ」
「うん……それまで、待っててくれるかい?」
「ああ」
半分を虚空に溶かし込んでいる虹を見ながら、ブルースは顎を引く。
「信じて、待っている」
その額に、クラークは小さなキスを落とした。