「あの大きい星から、上に向かって星を7つ数えて。それが北斗七星だよ」
「あれが?冬の時と位置が違うよ?」
「そうなんだ。今は夏だからね。縦に置かれた…計量スプーンって所かな」
クラークの朴訥な例えに、ころころとディックは笑い転げる。声変わりも思春期も未だ遠い少年の声は、満天の星空に吸い込まれていった。
ゴッサムを取り巻く雲が、遥かに離れたスモールビルにある筈も無い。天まで届く建造物は、ここでは神への冒涜と言わんばかりに排除され、敬虔に項垂れる草の海だけがどこまでも続いていた。
「ヘラクレス座は僕にも分かるんだ。あの星が、ベルトの3つの宝石でしょう?」
「その通り。良く知ってるね」
「父さんに教わったんだ」
ディックは誇らしげに胸を張ったが、ふと眉に翳を宿らせた。彼の両親が殺されてから、まだ1年が経っただけだ。涙を止めるには十分だが、悲しみを癒すにはいささか足りない。
それを見て取ったのか、クラークもまた、眼鏡の奥の瞳を曇らせる。ディックの頭を撫でようか考えているのだろう。指先が戸惑うように揺れていた。
「─―私は母から教わった」
シートから身を起こすと、ブルースはそう答えた。
「それ本当、ブルース?ゴッサムからも星が見えるの?」
「図鑑を見ながらだ。流石にゴッサムで教わった事は無い」
ディックも弾かれたように上体を起こす。ディックを隔てて寝そべっているクラークも、先程の憂悶はどこへやら、青い瞳を輝かせてこちらを見ている。
「ブルースにも僕みたいな頃があったんだね」
「…どういう意味だ」
やり取りにクラークが吹き出した。
「何がおかしい?」
「いや、微笑ましいと思ってね。…僕もディックと同じように、父から教わったな。形が特徴的なんだ、1番見分けが付きやすい、って」
クラークの指が、遠いヘラクレス座の星を示して、ひらひらと動く。ディックが再びクラークの横に寝転んだ。ブルースはそのままの体勢で顔を上げる。
「あそこまで飛んで行ける?」
重大な秘密を打ち明ける時のように、ディックが声を落として言った。2人のどちらに語りかけたのか、考えずとも分かる問い掛けだ。それでもブルースは、浪漫が無いと思いながらも答えていた。
「科学技術の発達次第だ」
物言いたげに見上げて来るディックへ、ちらりと視線を向けて付け足す。
「人力ではな」
「…ならクラークは?」
「うん、行けない事は無いね」
でも、とクラークは、こちらもディックに瞳を向けて付け足す。
「飛んで行かなくても、ここで十分に満足だな」
「近くで見る方が綺麗じゃないの?」
ディックの問いにクラークは首を振った。
「星は離れて見る方が美しいし、楽しいよ。確かに宇宙で見る星は綺麗だけど、どこか寂しい」
「何で?」
「草の匂いがしないから」
伸ばされたクラークの手が、シートを越えて地面に触れた。ふうん、と言って、ディックも地面に手を突く。それからすぐ、その唇は綻んだ。
「それに、アップルパイの匂いもしないからね!」
「…君の言う通りだ、ディック」
苦笑してクラークが身を起こした。
灯りの零れるケント家からは、林檎と蜂蜜の甘い香りが漂って来ている。その事にようやくブルースも気付いた。
全く、少年の食欲と鋼鉄の男の嗅覚に、勝てる者がいるだろうか?
「行こうか。夜食には少し重いけど、大丈夫かい?」
「勿論!ミセス・ケントやアルフレッドの作ったお菓子は別腹さ!」
勢い良くディックが立ち上がる。手に突いた土と草をほろってから、彼は早速シートの端を掴んだ。
「慌てるなディック。それに夕食からまだ3時間しか経っていないぞ」
「“もう”3時間だよ、ブルース。さあ下りて下りて!」
仕方なく腰を上げて、ブルースもシートの端を掴んだ。3人掛りで手早く畳むと、クラークがディックに先へ行くよう促す。
「これは僕とブルースで片付けるから。お先にどうぞ」
「分かった、ありがとう!」
「きちんと手を洗って、礼を言うんだぞ」
「分かってるって」
スモールビルの闇に少年の体が翻る。駆けていく先の扉は既に開けられ、マーサがディックに腕を広げていた。暖かな巣へと帰る駒鳥の背に、何時に無い安堵感を覚えながら、ブルースは軽いシートを持ち上げる。
「どこへ運べば?」
「あそこの小屋だよ」
「分かった。お前も行け」
「ううん、君と一緒に行く」
「数メートルで迷う馬鹿に見えるか?」
「2人きりの機会を見逃す阿呆に見えるかい?」
絶句したブルースに、クラークは笑って背中を叩いた。
「さっきの理由、1番大事な物を付け足し忘れていたんだけど」
「……何だ」
濡れた草とアップルパイの匂いを嗅ぎながら、ブルースはむっつりと尋ねた。半ば以上答えは予想出来ているのに、何故自分は聞いてしまうのだろう?苦々しさを噛み締めながらそう思う。
だがクラークの答えは、ブルースの推理力を上回っていた。
「秘密」
「……」
思わずブルースは横目でクラークを睨んだ。お蔭で小屋の扉に激突し掛けた位だ。誰もが居竦む眼光を、しかし物ともせずにクラークは笑った。
「“それは君がいないから”って言って欲しかった?」
「馬鹿にするな!誰が!」
小屋の扉を開けたクラークへ、手の中のシートを押し付ける。微笑はそのままに受け取るクラークが小憎らしくて、ブルースはさっさと背中を向けてやろうかと思った。余りに大人気なくも思えたので中断したが。
「ブルース、でも」
「とっとと片付けろ」
「もし答えがそうだと思っていたなら、やっぱり君は世界最高の探偵だよ」
がさりと音を立てて、シートが小屋の中に置かれる。扉を閉めながらクラークは片目を瞑った。
「僕の心なんてお見通しだ、そうだろう?」
扉が閉まる。鍵を掛けたクラークが、小さな声でそう囁く。ここには彼のような聴力の持ち主など、いないと言うのに。
「――当たり前だ」
渋面のまま、ブルースも低い声で応じた。
互いの呼吸を感じ取れるほど、顔を近くへ近くへと寄せていく。
だが唇の触れ合いは、ケント家の朗らかな婦人によって押し留められた。
「2人とも、そんな所にいたら風邪を引くわよ!早く戻ってらっしゃいな!」
「今行くよ母さん!」
振り返ったクラークが片手を上げる。マーサと扉の間からは、ディックの小さい顔が覗いていた。
「…残念」
「妙な事を言うからだ」
ブルースの言葉にクラークは肩を竦める。並んで歩き始めた2人の足元、濡れた草と土がきしりと音を立てた。
「明日は何時ごろに立つつもりだい?」
「朝食を頂いたらすぐに」
「じゃあ、無理だね」
「何が」
今度の問い掛けには、ブルースは予想をしていなかった。冷えて来た耳朶にクラークが顔を寄せてくる。思わず退こうとしたが、肩をしっかり掴まれた。マーサ達からは親友同士にしか見えまい。
「続きを僕の寝室でする事」
ディックが早くおいでよ、と言って手を振った。笑ってクラークが手を振り返す。
「…クラーク、1つだけ忠告をしよう」
「何だい?」
「あの家の形状から考えると、お前の部屋より、私の客間の方が物音は響かない」
「……」
呆気に取られて目を丸くするクラークに、にやりとブルースは笑った。
「実家の構造くらい把握するんだな」
「――母さん!」
家の灯りに頬を照らされながら、クラークはマーサに呼び掛けた。
「ブルース達は明日の昼過ぎに帰るって!」