『Happy birthday to you……』
間抜けな顔した人形の口から、ノイズ交じりの重厚なバリトンが開閉音と共に流れ出している。急がねばならない。歌が佳境に至るまであと僅かだ。
『Happy birthday to you……』
外れた手錠が音を立てて床に転がる。開放された手の感触を味わわせてやりたいが、今は無理だ。細い腰を掴み、コンテナの向こう側に飛びこんだ。
『Happy birthday dear……』
着地の際に軽く腕を打ったが、これ位ならばどうという事もない。すぐさまケープを広げ、己と彼女を包み込み、ベルトのスイッチを押す。
『dear……dear……deardeardeardearrrrr』
バースデイ・ソングの肝心な末尾が何度も再生される。その内にガタガタという耳障りな音が聞こえ出した。だが僅かな沈黙の後――歌が終わる。
『…Happy birthday to …… you』
5秒経ち、10秒経ち、30秒経っても何も起こらない。
機械音も鳴り止み、壁にしたコンテナの向こう側は再び静けさに支配されている。あの狂気じみた繰り返しも無くなった廃工場内に響くのは、ただ2人分の呼吸音だけだ。
「…ボス」
「まだ待て」
「でも」
彼女が何を言おうとしたのかは分からない。
だがその一瞬の沈黙を逃さず響いたのは、少年とも青年ともつかない奇妙な声だった。
「Happy birthday, Bruce」
肉声か録音か。確かめる術も時間もなかった。
魔法のような鮮やかさで、コンテナが宙に浮く。続いて叩きつけられたのは爆風と熱だった。彼女の首を竦める速度がコンマ2秒ほど遅れていれば、年齢も性別も不明な生首が出来上がっていただろう。いや、首と認識出来たかどうか。
対爆発用に強化されたケープは、煙を上げながらも辛うじてその役目を果たした。コンテナが床に四散し、辺りが灼熱に晒された後も、2人分の呼吸音は工場内に響いている。
ベルトのスイッチを押す。重さと強度を元に戻したケープが、夜の帳のような優雅さで翻った。
「怪我はないな?」
「はいボス。……ごめんなさい、手間を掛けさせて」
「気にするな」
『バットマン?』
先程から妨害されていた通信機器が、ようやく息を吹き返したらしい。緊張している声が耳元で何度も名を呼んでいた。
『聞こえていたら応答してくれ、こちらケイブ、今どこにいる?』
「アトム、私だ」
『良かった、無事だったか。キャットガールは?』
「彼女も無事だ。怪我も負っていない。こちらはゴッサム湾2−36C区画にあるアレックス製粉工場跡だ」
『了解。フラッシュにボーイズを付けて迎えに行かせる』
「頼む」
カチリと音を立てて通信が途切れた。
しかし、政府も軍も掴めなかったこの通信に、妨害を仕掛けてくる者がいるとは思わなかった。いや、思わなかった訳ではない。対処はしていた。しかし、その妨害が成功するとは予想外だった。
脳裏に容疑者の像が薄っすらと結ばれていくが、突如巻き起こった黒い疾風がそれを跡形も無く吹き飛ばす。
「バットマン!…思ったより元気そうだな」
どこか残念そうな響きは無視して、ブルースはバリーに肩を聳やかした。
「ドアが開けられたのか、フラッシュ?」
「あれだけ曲がって隙間があれば誰にでも入れるだろう。見てみろよ」
親指で示された方向には、爆破でひしゃげた扉がぐったり横たわっている。自分が入った途端に閉まり、微動だにしなかったとは思えない有様だ。ブルースは軽く頷く。
「…成る程」
「しかし、君が誘拐されるとは思わなかったよ。大丈夫かい?」
「ええ。別に拷問も何もされませんでしたから、この通り」
バリーの問い掛けにキャリーが軽やかに跳ねてみせた。が、誘拐された事が屈辱なのだろう。大きな目にはやり場の無い闘志がまだ燃えている。
負けん気の強い事は悪い事ではない。ただ、敵への執着に繋がっては困る。後でフォローが必要かどうか、考えながらブルースは歩き、歌う人形のあった場所にしゃがみ込んだ。
「……ここか」
呟きに合わせ、フラッシュとキャリーが近寄って来る。既にバースデイソングを歌っていた人形は原型を留めていない。中にあった爆弾が小さな部品を残しているだけだ。
しかしこれだけでも手掛かりにはなるだろう。政府関係か、レックスコープの負の遺産か、はたまた別の誰か、何かか――正体を、突き止めねばならない。
「手掛かりになりそうかい?」
「ああ、保管しよう。…ボーイズは?」
「おいおい、僕に付いて来られる奴がいるとでも?」
「分かっているなら機器の1つでも運んで来い」
ベルトを探りながらブルースがそう言えば、バリーは肩を竦めてみせた。
「アトムからは“応援”としか聞かされてなくてな。そうと知っていれば」
「ボス、フラッシュ」
キャリーの声がフラッシュの軽妙な応酬を遮る。
「仲良くしている最中に悪いんですけど・・・あれ、何だと思います?」
彼女が見上げる先には――紙製のボールが浮かんでいた。
ブルースでも抱えられるかどうか、と言う大きさだ。黄色と赤、水色の紙で彩られ、天井とはロープ1本で繋がっている。
更に、色の鮮やかさに惑わされず目を凝らせば、子どもの工作さながらにべたべたとテープが貼られていた。どう見ても廃工場にあるべき物とは思えない。相応しい場所を探すならば、学芸会か、運動会が良い所だろう。
まさか、と呼吸も忘れて立ち尽くしていたブルースの耳朶を、けたたましいエンジン音が打った。
「ボスー!バットボーイズ到着しましたー!」
響いた元気のいい声が、押し黙った3人の空気を破る。
「…僕が壊して……いや、割ってみようか」
「止めろ」
バリーの提案にも間髪入れずブルースは首を振った。それでもキャリーが天井を見上げながら続ける。
「もしアレなら、どこかにヒモか何かありますよね」
「キャリー!」
ブルースの叱咤にもめげず、彼女は薔薇色の唇を尖らせた。
「だってボス、バースデイソングにあの見かけと来れば、やっぱりここはあって然るべきなんじゃないですか?」
「もしまた爆破物だったらどうする!」
「僕が連れて逃げれば良いだろ。とにかくやってみよう」
「バリー、いい加減に――」
振り返ってブルースが止めようとするより早く、黒い閃光は壁を駆け上った。
止めろという一単語が口から吐き出されるまで、光の速さを持つ男が待っている筈もない。聞く訳もない。バットボーイズがわらわらと工場内に入ってくるのと、バリーがそれを軽やかに蹴り飛ばすのとが、ほぼ同時だった。
それは、銃の発砲に近い音を立てて、真ん中から綺麗に割れた。
どういう仕掛けかは分からないが、先程の機械とは全く異なる、しかしメロディは同じオルゴール音が、その場にいる全員の耳に届いた。ピアノをベースにした、穏やかな調子のバースデイソングが乾いた空気に染み渡っていく。
そして同時に、小さな蝙蝠の形に切られた大量の紙吹雪が、一同の頭上に降り注いだ。
「やっぱり」
落ちてきた1枚を手にしたキャリーが、そう呟いた。
ローズピンクをした紙の蝙蝠には、『Happy Birthday!』の文字がでかでかと書かれていた。
工場の中をペーパークラフトの蝙蝠達が舞っている。それを受け止めるブルースはマスク越しでも、そして隣のビルからでも明確に分かる仏頂面だ。フラッシュがレモンイエローの蝙蝠をひらひら振ると、猛然とした勢いでそれを引っ手繰った。
もうしばらく見ていたい光景ではあるが、そろそろ離れないと危険だ。望遠鏡をベルトに仕舞い、50代最後の誕生日を迎えた男にキスを投げる。
「精々、長生きしなよ」
綻ぶ唇とは対照的に冷たく言い放つと、ディックは足場代わりの錆びたパイプから飛び上がった。
「今日は大変だったみたいだな」
生温い夜風に赤いケープが舞う。ケイブ備え付けの監視塔はコンピュータ管理をされている為、今宵のように2つも人影があるのは珍しい。森に覆い隠され、電灯の点される事が少ない場所だが、月明かりがあればどちらにとっても十分だ。
ぼんやり照らされる相手の目は、苦笑混じりの優しいものだった。
「最悪だった」
地顔になり掛けている渋面でブルースは応じる。
特に不機嫌な理由は2つ。1つは昼間の出来事であり、もう1つはケイブの連中が陽気に騒いでいる事だ。後者は彼の誕生日を口実に、単に馬鹿騒ぎをしているだけなのだろう。ただでさえ乱痴気騒ぎは嫌いだと言うのに、その理由が自分の誕生日となると、嫌気にも拍車が掛かる。誰かの視線に留まる度に、「誕生日おめでとう」の声が掛けられるなど。もっての外だ。
そうして密かに逃げ出した自分を途中で迎え、ここに連れて来たのが、茜色のケープを纏った男だった。
「ブルース」
「何だ。お前まであの言葉を言うつもりなら、このまま帰るぞ」
「酷いな、違うよ。行為自体は似たようなものだろうけど」
ケープの中から取り出されたのは、大きな手にすっぽり収まるケースだった。どこか見覚えある形に、ブルースはただでさえ深い眉間の皴を更に深める。
「まさかお前……」
冷たい色に無骨な形。恐らくは、鉛製。
「生涯を通して信頼出来る相手に、これを渡したいんだ」
どこかで聞いた事のあるような台詞と共に、ゆっくりケースが差し出される。
「自分のしている事が分かっているのか?」
深い真摯な声につられ、矢張りどこかで聞いた事のあるような台詞を口にしてしまった。それに気付いたのか、相手の頬の線がふと和らぐ。
「分かっているさ。僕はこれを君に受け取って欲しいんだ」
そっと取られた右手の上に、質量以上の重みが乗った気がする。柔らかな笑顔の裏に隠されているのは、余りにも重たい信頼だった。
長い吐息の後に続ける言葉は、勿論否定のものだ。
「馬鹿だな」
否定のものに、する筈なのだ。
「どうしてだい?」
「…今は、お前以外にクリプトニアンがいるだろう。お前が暴走するとしても、彼らが止める。無力な人間にそのような……弱点を渡す必要など無い筈だ」
「そうかな。もし僕を操れるような何かがあるとしたら、それはきっとクリプトニアン全てに効くだろう」
「だとしてもだ。生涯を通じてと言うが、私はお前より先に――」
「死なない」
強い語尾につい見上げた先には、何にも増して鮮やかな青い瞳がある。
「君は僕より先に死んだりしない。…そうだろう、ブルース?」
確信しているような口調とは裏腹に、その瞳には少しだけ影が差している。その影が、何より強くブルースの言葉を喉で塞いだ。
「…馬鹿だな、お前は」
辛うじて発した言葉に、クラークは静かに微笑む。
「お互い様だろう?」
「…一緒にするな」
だがそう言いながらも、ブルースは鉛のケースを握っていた。するりと離れていったクラークの手が、そのまま皺の刻まれた頬に触れる。
「誕生日おめでとう、ブルース」
そして茜色のケープが、闇夜の騎士を静かに包む。
その響きも悪くないと、目蓋を伏せながらブルースは思った。