「凄いじゃないか」
6段作りの書棚に並ぶ、暑苦しいほど大量の本を見上げてクラークが呟いた。眼鏡の奥の瞳は宝物を見付けた子どものような輝きが宿っている。足元から染み入る寒気も、古びた紙と閉め切った部屋が漂わせる臭いも、彼には全く気にならない様子だった。
「これ、全て展示会に出品するのかい?」
「その予定だ。眠らせておくのも勿体無い」
古くは中世から近くは30年ほど前まで、書かれ作られた年代は様々な本に向かったまま、ブルースは彼の問い掛けに頷いた。
来月に行われるデイリー・プラネット協賛の展示会に、ブルースは邸に眠っていた本のコレクションを出品すると決めたのだった。好事家ぶりでも伝説的なウェイン家の当主達は、『出版の歴史を辿る』と言うテーマに恥じぬ品を残していてくれた。
――好みがとりどりに過ぎる感はあるがな。
上半身は女、下半身は蛇と言う怪しげな文様の付いた、黒革の本を見てブルースは密やかに思う。その本の左にある深い緑の本には、哲学書らしいタイトルが褪せた金の飾り文字で書かれていた。
「これでまだコレクションの一部なんだろう?メトロポリス図書館も顔負けだな」
周囲を見渡しながらクラークが言う。
確かにこの書庫には、2人が前にしているような本棚が数え切れぬほど居並んでいた。それこそ城塞か兵隊のように整然と。
自分の身長よりも高い本棚の列に、怯えていたかつての自分を思い起こしながら、ブルースはそっと指先で革表紙に触れる。
「ここの両脇にも小部屋がある。整理する度に新たな物が見付かって面白いぞ」
「…読み切るのに一生掛かりそうだ」
「お前なら30分で済む量だろう?」
肩を竦めて視線を流したブルースに、とんでもないと眉を逆立ててクラークは憤った。
「折角の本なんだから時間を掛けて読みたいじゃないか。あれは読書と言うよりも、時間が無い時に使うもので――」
「分かった、分かった」
彼にとっては本に対する冒涜的発言だったらしい。気の入った背中を軽く叩くブルースに、未だ納得のいかぬ瞳を向けてくる。それを宥めようとブルースは棚に視線を向け、上手いタイトルをひとつ見付けた。
「ところで、マーク・トゥエインは好きか?」
「誤魔化されないぞ。…好きだけど」
「トム・ソーヤーの冒険なら初版がある」
「え?!」
角の擦り切れた本を示した途端、寄せられていた眉間の皺が一気に消えた。しかし自分でもその事に気付いたらしく、しまったと言いたげな表情に変わる。だがそれもやがて、期待と不安の混じり合った色にとって代わられた。彼らしい表情の豊かさを台無しにせぬよう、そっとブルースは唇を噛んで笑みを堪えた。
本と自分とを交互に見るクラークの為に、棚に置かれていた手袋を着け、傷付けぬよう留意しながら本を取る。
紙は年月に侵され黄ばんでいたが極端に痛んではいない。ページをめくる度、クラークの声にならぬ感嘆がブルースにも伝わって来た。最初の挿絵を見た時、わあ、と小さい声が上がる。
「初版なんだから発行は…1880年頃だろう?まだ残っているなんて」
「…ここには中世ヨーロッパの本もあるんだぞ」
「あ、そうか」
照れ臭げにクラークが苦笑する。その気持ちは分からなくない、とブルースも小さく笑った。
笑いを1度収めた後で、クラークが再び辺りの本棚を仰ぐ。
「でも君が羨ましいよ。子どもの頃からこんなに沢山の本が読めたんだろう?スモールビルなんて小さい本屋が一軒だけだったんだ」
そう言って読みたかった本を上げていくクラークに、ブルースは微かな苦味を口中に感じた。
確かに幼い頃から本は好きだった。が、自分の好みは童話やファンタジーばかりで、それらを良く思わない父の目が怖く、書庫からそう言う本を取り出せた覚えは少ない。
例外はアリスを読み聞かせてくれる母だったが、彼女が銃声の彼方に消えて以来、ブルースは殆ど本を好んで読まなくなった。少年文学を読むのも将来の教養の為、科学や医学の本は修行の為と、実用を求めてページを捲り続けていた。
純粋な目で本や作者の名を上げていくクラークに比べると、自分が酷く乾いた心の持ち主なのだと突き付けられるような――そんな気がした。
「……それで」
思ったよりも間近での呟きにブルースは顔を上げる。眼鏡の奥の青い瞳を見て、ブルースはようやく自分が本を持っていた事に気付いた。半ば無意識に次のページを捲る。
「クラーク」
「うん?」
物語がトム・ソーヤーのペンキ塗りの辺りに来た所で、独り言のようにブルースは呟いた。
「後でもう1度、お前の薦める本を教えてくれないか」
「…良いけど何故だい?」
首を傾げるクラークへ、ブルースは小さく肩を竦めてみせた。
「お前の話のお蔭で懐古の念が芽生えた、と思ってくれ」
その日の夜から――ブルースの枕元には、児童書や少年文学が何冊も積み重ねられる事となった。