言うなれば羽虫のようなものなのだろう。
闇夜を照らす光に、身の程も知らず近付いていく。
DESIRE
帰還を嘉するように蝙蝠達が羽根を鳴らした。騒がしくなったケイブの床へと、すっかり馴染みになった鋼鉄の男が着地する。いっそ飛び降りたかったが強靭な腕はそれを許す筈もない。きちんとブーツの踵が床に着くまで、彼は手を離そうとしなかった。
「……助かった」
憮然とした顔でそう呟くと、苦笑に近い微笑が整った顔に浮かぶ。どう致しまして、とあの善良極まりない言葉で答える事も無く、 彼は一歩下がってからこう言った。
「それよりも、君は結構命知らずなんだな」
「ケント」
視線と言う名の武器を突き刺しても、彼は唇の片端を上げるだけだ。悪びれないその様子に思わずこちらが項垂れる。彼は神経も鋼鉄なのではなかろうか。
「言い換えれば情熱的なんだろうけど」
「…場に酔わされたんだ」
神話の面影をそのままに残すセミスキラ。あそこでは光が濃密な空気となって周囲にたゆたうのだ。ゴッサムの闇が息苦しいまでに濃密なのと良く似ていた。
己のような生き物が、あの光を吸い込んでまともでいられる訳が無い。太陽と空を纏う男はしかし、きょとんと首を傾げる。
「…場に?酔わされた?君が?」
「ああ。だから……くそ、もう良いだろう?忘れろ」
説明するのは気恥ずかしい。それにした所で、彼はきっと分からないだろう。
光を吸い込み半ば朦朧としたまま、何かに誘われるようにして緑を掻き分けた。太古の樹木が作り出す影は、それ自身強く光と水の匂いを放っている。足場も気にせず突き進み、そして着いた先には――かの女神。
「珍しいな。そんなに気にするなんて」
「愚かだったと自覚しているからだ。あんな行為をすべきではなかった」
「本当かい?」
揶揄するような響きが消えた声に思わず振り向くと、彼は少し目を見開いていた。
「君は彼女に、その……恋したんだろう?理屈じゃないさ。確かに不味かったとは思うけれど、何も恥じる必要なんて」
「違う」
ああ矢張り彼には分かるまい。
光に惑わされ渇望する羽虫の心など、光そのものは知る由も無いのだ。
「恋ではない」
「じゃあどうしてキスしたんだ?」
「その単語は聞きたくなかった」
接吻とか口付けとかいった言葉を、せめて今日だけは耳から追い出していたい。再び背を向けて椅子に座った。だがなおも太陽神と間違えられた男は、この場から去るつもりがないようだった。
「教えてくれブルース。気になるじゃないか」
「ケント、その記者根性は別の場所で発揮してくれ」
左手を振ると不意に強く捕まれた。予想だにしていなかった行為に目を向ければ、苛立ちを帯び始めた青い瞳がこちらを見ている。
「……すまない」
だがすぐに、手首を握っていた手が離れていく。無尽蔵の力を解放した訳ではなかろうが、手首は何時に無い痛みを訴えていた。
「ただ、知りたかったんだ。これからも、僕らは3人で……活動するだろう?なのにその1人に、君が例の」
「安心しろ。プレイボーイの職業病などではない」
歯切れの悪さに痺れを切らし、途中でそう断言した。ようやく納得したのか、揺れ動いていた目が安堵したように細められる。だが再びその目に疑念の影が過ぎった。彼の本拠地であるメトロポリスの空は、こう簡単に変わるものではないと言うのに。
「では、何故?」
知り合ってそれなりに長いが、この男がここまで食い下がるのは初めてだ。意外な一面を見たと言う僅かな驚きが胸を満たす。その端から、建前と本音が静かに喉へと競り上がって来る。
恋などではない。あの衝動はその言葉に当てはまる物ではない。
彼女の姿だけが脳裏を染め、紳士的な振る舞いなどと言う代物を追い出していく。手に入れたいと言う念だけが自分の行動を支配する。
世の犯罪者やヴィランと何ら変わりない、そんな衝動をこの男に明かしたくは無かった。
「言っただろう」
だからわざと真面目な声音を取り繕った。
「場に酔ったんだ」
濃い眉が寄った。それでも誤魔化しではないと思ったのだろう。小さな溜息をひとつ吐き、彼は頷く。
「分かったよ。少なくとも恋愛感情ではなかったと」
「そう言う事だ。…調べ物があるんだ。悪いが」
「ああ。長居してすまない」
あっさりと答えてから彼は背中を向ける。たちまち重力など無いものかのように、体躯が宙へと浮かび上がった。
そう、恋ではないのだ。
大鷲に囲まれて空から降りて来たこの男にも、一瞬だけ、彼女に対して抱いたものと同じ衝動を覚えたのだから。
「それじゃあ、また」
「ああ」
振られる手に軽く返し、青と赤の軌跡が消えるのを見送った。
この手の内に閉じ込めて、他の何者をも照らさぬように。醜悪な願望だ。彼にはきっと分かるまい。
分からないでいて欲しいと、そう思った。