前進と後退

 眩い夜が広がる窓の外から、薄明かりが朧に照らす室内へと、クラークはそっと視線を移した。巨大な窓ガラスは見事に磨き上げられていて、冷蔵庫から水を取り出す彼の姿が綺麗に映り込んでいる。
 屈んだ拍子に少しバランスが崩れたのは、どこか怪我でもしている故だろうか。薄手のシャツ1枚なら透視するのも一瞬で済むだろう。たちまち瞳から滲んだ青白い光が窓ガラスを照らした。
「クラーク」
 見計らったように、窓の中のブルースが顔を上げた。
「な、何だいブルー……うわ?!」
 目を瞬かせながら振り返った途端、胸元に小さなワインの瓶が飛んで来た。絨毯の敷き詰められた床に落下、と言う悲劇は避けられたが、危うくしっかり掴み過ぎて握り潰しそうになる。
「あ、危ないじゃないか!」
「スーパースピードがあるだろう?」
「あったって驚く事に変わりは無いよ。ああびっくりした……」
 幸いヒビ1つ入っていない。ほっと胸を撫で下ろしたクラークの眼前で、何時の間にか接近していたブルースが、意地悪気に目を細めた。反省の色など微塵も見られない。
「それは悪かったな」
「…で、これは?」
 もしかしてワインオープナーの代わりを務めさせられるのだろうか。彼ならボトルの口のひとつやふたつ、東洋の不思議な武術で切り飛ばせそうなのに。馴染みの無い深緑のボトルを掲げるクラークに、ブルースは軽く顎をしゃくった。
「土産代わりだ。持って行ってくれ」
「え、でも」
「飲んだのは水だけでアルコールには手付かず、だと怪しまれるからな」
「…確かに、君の行状から考えるとおかしいな。四六時中酔っ払ってそうなのに」
 クラークの軽口にも、なかなか言う、とブルースはむしろ愉快そうに肩を竦めた。
「まあそう言う訳だ。協力してくれ」
「畏まりました」
「宜しい」
 おどけてボトルを胸に当ててみせれば、摂生に努めるゴッサムの王子も頷いて返した。尊大な仕草も彼がやると様になる。少し反った顎先に、クラークは一歩だけ踏み込み軽いキスを落とした。たちまちぎゅっと眉間に皺が寄る。
――ああ、可愛くない。
 そう思いながらも唇は勝手に緩む。それと裏腹に益々きつくなったブルースの眉間目掛けて、クラークは更に一歩踏み込んだ。先程よりずっとスピードを上げたのに、しかしブルースは軽やかに後退して避けてしまう。
「逃げなくても」
「逃げてなどいない」
「じゃあそれは?」
「バックステップの練習だ」
 灰がかった青い瞳は冬の空よりも冴えているのに、言葉まではそう上手くいかないようだ。思わず吹き出しそうになるのをクラークは堪えた。代わりに、華麗に後退していくブルースの、広い背中に素早く回り込む。
 はっと振り返った彼は拳を振り上げたが、クラークの持つボトルを見て宙で動きが止まる。その隙に、クラークは躊躇い無く空いている片手をブルースの腰に絡めた。
「とても綺麗なバックステップだったよ、ブルース。後ろから見ても完璧だった」
「では、今度は、お前の番だな」
 胸に手を当て、押し返そうとするブルースの耳元で、クラークは今度こそ吹き出した。彼が逃れぬよう片手に力を込めて、ほんの少しだけ地面を蹴る。踵を繋ぎ止めていた重力の世界から、2人は数十センチばかり脱出を遂げた。
「良いよ、僕の練習は空中でだけど」
「おい」
 5つある別室の内、リビングに続くドアを確認しながら、クラークは背後へ向けて飛び続ける。いよいよ強くなったブルースの視線に、苦笑いして囁いた。
「君ほど上手じゃなくてすまない」
「十分だ。満点をやるからとっとと放せ」
「嬉しいな」
 ドアをくぐった所で、クラークはそっと降下する。毛足の長い絨毯が2人の靴をふんわりと包んだ。手を放せばブルースがすぐに3歩ほど後退してしまう。ワインボトルを傍らのテーブルに置くと、クラークはこちらを見据える彼に腕を開いた。
「じゃあバックステップは終わったから、今度は前進の練習をしようか?」
 ねえブルース?と首を傾げると、引き結ばれていた唇が不意に綻んだ。
「ああ、そうだな。しっかり受け止めてくれ」
 言い終わるや否やブルースは飛んだ――クラークの胸元に。

「……これじゃあ、前進と言うよりもタックルだよ」
「何か不都合があるか?」
 ワインのボトルを投げられた時よりも、遥かに繊細に力を加減して、クラークはブルースを抱え直した。床とクラークの背中の間には、拳ひとつほどの空間がまだ残っている。それが救いだ。
「お前の動きも見事だったぞ、クラーク。目を見開いたまま後ろに倒れる所なんて最高だった」
「床に叩き付けられる寸前で浮かんだのは?」
「及第点だな」
 クラークを空中に押し倒した格好のまま、ブルースが言い放つ。
――ああ、本当に可愛くない。
 ついクラークは眉間に皺を寄せてしまう。その頬に、喉で笑いを殺しながらブルースが唇を寄せて来た。逆側の頬をぴたぴたと掌が打つ。
「拗ねるな」
「拗ねていない」
「じゃあ今度もお前の番だぞ」
「何の?」
 ブルースがちらりと視線を動かした。思わずクラークもその先を追う。
「前進の練習だ」

 部屋の奥で横たわるベッドには、初雪よりも眩い純白のシーツが覆い被さっていた。

 舌先まで込み上げて来た「ここはリビングじゃなかったのか?!」と言う驚愕を押し殺して、クラークはブルースの言葉通り、浮き上がって前進の練習を開始した。

前進にもちゃんと満点を貰えました。

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