背中に流れたケープが爽やかな音を立てる。大きな衣擦れが許されるのはここまでだと、自分に言い聞かせながらも、ブルースは決してその音が嫌いではなかった。闇夜の騎士の世界へと、入り込むには丁度良い。
マスクで狭まった視界に慣れるべく、衣装と装備で満ちた小部屋を見渡せば、棚に置いたデジタル時計の数値が目に入った。PM11時25分。約束の時間まであと幾許も無い。思わず口から漏れかけた溜息を噛み殺すと、ブルースは身を翻した。
ドアを開けばすぐそこはケイブだ。蝙蝠より他のものを受け付けない闇が広がっている。
しかしぐん、とドアノブを回し押した瞬間、ブルースの目には闇と相容れぬものが映りこんでいた。
「やあ、こんばんは」
地面から2メートル半ほど離れた中空で、空色のボーイスカウトが手を振っていた。
「迎えに来たよ。少し早かったかな?」
「…5分ばかりな」
ブルースはクラークの朧な影を見ながらそう吐き出した。視線を合わせるべく見上げるのも癪だ。そのまま大股でコンピュータへと歩み掛けて気付く――今日の用事はそこにないのだと。
「それじゃあ」
すぐ背後から聞こえる声に思わず身が竦む。ひとつだけ飛び上がった心臓が我ながら憎らしい。どうせ彼の耳には届いているのだろうと、眉を寄せながらブルースは極力ゆっくりと振り返った。
黄色いSの字の前で、クラークは大きな手を広げてにっこりと笑ってみせた。
「行こうか?」
「……頼む」
クラークの肩越しに覗ける、翼の折れたバットウィングの姿を睨みながら、ブルースは頷くしかなかった。
空を飛べぬ人間の身を怒りでもしているのか。ゴッサムの上空を吹き渡る風は、ビルの間を飛ぶ時のそれよりもずっと鋭い。少しだけ奥歯を噛んだブルースへ、音が聞こえたのかクラークが顔を向ける。
「寒くないかい?」
「平気だ」
条件反射のような早さで答えながら、ブルースはずっと足元のゴッサムに視線を注いでいた。今が昼間であれば多少のビルの判別は付いただろう。だが夜と街の暗さはブルースから視力を奪う。ペンギンの飛ばした鳥型爆弾と、バットウィングが揉みくちゃになった場所は見えない。
あれさえなければ、いや、あったとしてももう3日ほど起こるのが遅ければ。そしてジャベリンセブンの修理がもう2日早く終わり、タワーでの監視日程がもう1日ずれていれば。
「ブルース?」
突如として眼前にクラークの顔が現れた。込み上げ掛けた驚きの声を飲み込み、ブルースは視線を逸らして逆に問う。
「何だ」
「いや……うん、やっぱり何でもない」
「…何でも無いなら聞くな」
うん、と俯き加減にクラークは頷いた。少しだけブルースの腰に回した手をずらすと、また先程のように空へと顔を向ける。高度が上がったらしい。近付き始めた暗い雲へと飛び込む前に、クラークがぽつりと呟いた。
「そんなに嫌かな……」
問い掛けではなく明らかに独り言だった。風の強さもあって自分には聞こえないと踏んだからだろう、とブルースは察する。だがそれを知らせるより早く、厚い雲が顔に覆い被さった。聞かれたと思って速度を上げたのだろうか。
そして呼吸を奪われる一瞬の後、不意に巨大な月が現れた。
雲を絨毯にして浮かぶそれは、良く見れば右上が少しだけ欠けている。だけれども淡い白金の輝きは満月と比べて殆ど遜色がない。月光に押される周囲の星明りのように、ブルースもしばし圧倒された。
クラークはそのまま月に向けて飛び続ける。黙った彼の横顔もいつしか月と等分に眺めながら、ブルースはふと脳裏に過ぎったフレーズを口にした。
「“私を月まで飛ばして頂戴”、か」
こちらも独り言のような小さい声であったが、クラークは目をそれこそ満月さながらに丸くした。空色の瞳が何かを確かめるように、鮮やかに白い目の中で動く。半ば無意識であったブルースはようやくそこで、しまったと強く眉を寄せた。
「いや、気にしないでくれ。つい」
口に出てしまっただけだから、と言い掛けたが、それよりも早くクラークの目元が和んだ。
「確かにこの状況はね」
腰に回されている手に力が篭る。ブルースは少しばかりむっとしたが、クラークの邪気の無い笑みを見て早々に眉を開いた。文字通り彼に飛ばせて貰っている状態では、どれほど意地を張った所で無駄なのだ。
だからもう、凝り固めていたものを溶かしても良い頃だ。
小さな小さな溜息を漏らしてから、ブルースは改めてクラークに目をやった。
「流石に火星や木星まで行けとは頼まんからな」
「そうかい?…確かに地球以外の惑星は余り綺麗な春が来ないけれど、でも」
「見たくなったら自力で行く」
「残念だな」
言葉とは裏腹にクラークの唇は笑っている。ようやく訪れた会話のお蔭か、雲の上を行く寒さも殆ど気にならない。風で揺れるクラークの前髪を見ていると、ふと彼が真面目な声を出した。
「ブルース」
「うん?」
相槌を打つや否や唇が覆われる。今度呼吸を奪ったものは、雲のように碌に形が無いものではなく、確かな柔らかい感触があるものだった。
下唇を少しだけ吸われたが、殆ど触れるだけの口付けだ。それを何度も角度を変えて繰り返され、ようよう彼の舌が潜り込んで来て初めて、ブルースは手を振り上げた。頭に向け掛けたそれを、途中でクラークの耳へと方向転換する。優しく愛撫するように触れてから、力一杯引っ張った。するとたちまち舌先が口内から逃げていく。
「い、痛いよ」
「妙な真似をするからだ!」
遅れて頬にやって来た熱をかき消さんとブルースは声を張り上げた。しかし、痛みを感じる訳など無いのに、こちらを見上げるクラークの瞳は涙を滲ませたように潤んでいる。その濡れた長く濃い睫毛についブルースは気を取られた。が、背中にまで回って来たクラークの手にすぐさま我に返る。
「妙な真似なんてしていないよ。誘ったのは君じゃないか」
「いつ私がどうやってお前を誘った!?」
「歌詞の続きを忘れたのかい?」
互いのベルトが痛いほど密着しながらクラークは首を傾げる。一時抵抗を棚上げにしてブルースは歌詞を紡ぎ始めた。
「“火星と木星の春がどんなものか見せて頂戴”だろう」
「その次の次」
「次の次?確か、“つまり”……」
そこでブルースは息を呑んだ。
「そう」
クラークが片目を瞑る。くっきりと頬に刻まれた笑みは月さえも照らさんばかりだった。
「“つまりダーリン、キスしてって事よ”さ!」
「――深く考え過ぎだお前は!」
もう1度と言うようにクラークの指先が頬に触れる。頭を振ってそれを跳ね除けたブルースの叫びは、虚しいほど鮮やかに、冴えた夜空に響き渡った。