外からはこの部屋のみが明るく映る事だろう。大きく伸びをしながら、夜に閉ざされて久しい窓の外をクラークは見やった。不夜城の異名を冠するこの街は、確かにさんざめく光に満ちているが、ビジネス街となれば少々勝手が違って来る。
中部での地震騒ぎと人命救助に追われていたお蔭で、クラークの机の上にはまだ書きあがらぬ原稿があった。明日の昼にまで提出しなければならないと言うのに、そんな時に限って物書きの神様は降りて来ない。手や思考の速さと、納得のいくいかないは関係が無い。書いては消し、書いては消しの作業を続けている内に、何時の間にかデイリープラネットはすっかり無人になっていた。
椅子の背もたれに体重を預ければ、そろそろガタが来ているらしく、みしりと重たい音が鳴った。何となくベッドが軋む音に似ている。
そう言えば最近ブルースに会っていないなと、思ってクラークは1人顔を赤らめた。よりによってベッドから連想したなどと知れば、禁欲的な彼はきっと濃い眉を寄せ、クラークに冷たい一瞥をくれるのだろう。馬鹿か、と言葉を投げ付けて来るかもしれない。それからふいと顔を背けるのだ。
だけどその薄い耳朶が、珊瑚のような紅色に染まっている事をクラークは知っている。
「……止めよう」
そこまで思い起こしてクラークは首を振った。このままだと現実逃避と言う甘美なスパイスの効果も加わり、とんだ色合いの想起になりそうだった。それこそ珊瑚のような紅色の。
原稿が終わるのは恐らく、ゴッサムの蝙蝠が飛ぶ時間帯の真っ只中だろう。会いに行っても恐らく、けんもほろろに追い返される。それでも元気そうだと確かめるだけなら、とクラークは未だ闇夜の騎士に捕われた思考を続けながら、机に再び向き直った。乱雑に書き殴られた用紙に背中を丸める。
「ん?」
だが最初の一文字を書くより早く、奇妙な音をクラークの耳は捉えていた。
ビルの中ではない。窓の外だ。こちらへ近付いて来ている。
シャツのボタンに手を掛けた瞬間、窓ガラスを割って何かが飛び込んで来た。
「な」
驚きに手が止まった。飛び込んで来たものは、真紅のボディスーツを身に纏っている――こんな格好をするのはクラークの同業者か、敵対者のどちらかだ。
銀色の銃を手にした男は周囲を見渡し、そしてクラークを羽交い絞めにした。
「え、ちょ、何なんだ一体?!」
「灰になりたくなきゃ動くな!」
戸惑うクラークのすぐ横で、銀色の銃口から炎が飛び出した。思わずクラークは息を呑む。だがそれは、炎への恐怖からではない。
同じく割れた窓ガラスから入って来た、闇夜の騎士を見たからだった。
「動くなよバットマン、こいつが死ぬぞ」
「……」
むっつりと唇を結んだまま、ブルースは男を睨み付けている。感情など微塵も出ていない表情だが、それでもクラークには彼が何を思っているか理解出来た。
――よりにもよって、ここだとは。
ただ、普通のビルで普通の人間を人質に取られるよりはましだろう。クラークはひとまず自分が選ばれた偶然に感謝した。とにもかくにもこの男はヴィランだ。そんな危険な手に普通の人間を掴ませる訳にはいかない。
「……彼を解放しろ」
「誰がするか。メトロポリスまで追って来やがって……俺が自由になるまで、こいつは連れて行く」
じり、とヴィランが後ずさった。声は比較的冷静だが、心拍数はかなり早かった。緊張しているのだろう。
それならば、とクラークはしばし考えた後、視線を窓にやって口を開いた。
「あ、スーパーマン!」
「何?!」
そう叫んだヴィランの額に、バッタランが鮮やかに命中した。
「手間取らせてくれる」
昏倒したヴィランをロープで縛り上げてから、ブルースは吐き捨てるように言った。八つ当たりも篭っているのかもしれないとクラークは思う。
「えっと、バットマン?」
「…何だ」
「助けてくれてありがとう」
「止せ」
ぎろりと横目で見据えられる。青いタイツと赤いケープを纏っていない今の身では、慣れた筈の視線もどこか違う気がした。はい、と大人しく肩を縮める。
「それよりも、この件は記事にするつもりか?」
「え」
考えてもみない言葉をぶつけられて、クラークは戸惑った。
言われてみれば確かに願ってもないスクープだ。ゴッサムのバットマンは常に影のような存在で、彼が介入したと確かに信ぜられるような記事も写真も、未だこの世には出回っていない。
だがクラークはヴィランが気絶しているのを確かめてから、首を横に振った。
「君が困るなら、しないよ」
「……ならばこれはスーパーマンの手柄にでもすると良い」
「でも」
「窓ガラスの説明をどうするつもりだ?それに」
同じようにヴィランに目を落としてから、ブルースが言う。
「“スーパーマンが助けてくれた”事は嘘では無い」
「…確かにね」
クラークは苦笑した。ブルースの顔にも、ちらりと笑みの影が過ぎる。だが彼はすぐに踵を返し、窓へと向かった。
「いたのがお前で良かった」
「だけど僕も、他の記者と変わりないよ」
「何故だ?」
肩越しに振り返った仮面に、その奥に秘められた素顔に、クラークは言った。
「君を捕まえようとして、いつも影を追い掛けている」
ほんの刹那、ブルースの瞳が見開かれた。しかしすぐに唇が不敵に吊り上がる。
「違うな」
割れた窓ガラスが鳴った。遠くから聞こえ始めたサイレンを眼下に、ブルースは隣のビルへとワイヤーを放つ。窓の外を見つめながら彼は言った。
「お前は本物を捕まえる事もあるだろう」
問い掛けよりも確認の響きを帯びた声に、クラークは思わず身を乗り出す。
だが既に闇夜の騎士は、その蝙蝠の翼で飛び去った後だった。それでもクラークは彼の耳に届けと叫ぶ。
「また今度、捕まえに行くから!」
背中を追う声からすり抜けるように、ビル街を飛ぶ蝙蝠の背中を、クラークは警察が訪れるその時まで見守っていた。