SPECTACLES

 窓ガラスに枯れ葉が1枚、ぺたりと張り付いた。
 夕暮れを終え薄墨を流したような夜が広がり始めている。そろそろカーテンを閉めねばなるまい。そんな事を考えながらブルースは本のページを捲った。もうすぐ章が終わる。カーテンにはそれから取り掛かれば良い。
 黄ばんだ紙と滲んだ文字に占められた視界の隅で、ふと小さく何かが揺れた。
 枯れ葉と言うには余りに鮮やかな赤と青。
 首を動かさぬまま、ブルースは本から窓へと視線を移した。窓に張り付いていた枯れ葉は飛んでしまったらしい。その代わりのようにテラスに立つ鋼鉄の男が手を振った。
 わざとらしく、鋭敏な耳に届くよう溜息を吐いてから、ブルースは本を閉じ立ち上がった。鍵の掛かる事が無い窓を開けば、清冽な空気とそれ以上に澄んだ青い瞳にぶつかる。
「何か用か?」
「例のデータを持って来たよ。ケイブに行ったんだけど、蝙蝠にしか会えなかったから」
「…入れ」
 クラークを中に入れてから、ブルースは窓を閉めた。ついでにカーテンも閉めておく。振り返るとクラークは立ったまま、しげしげとブルースを見つめている。
「どうした?」
「いや、珍しいじゃないか。君が眼鏡を掛けているなんて」
 ああ、と口の中で呟きながらブルースはそれを外した。横長のレンズも、細い濃紺のフレームも、購入仕立ての真新しい輝きを放っている。つい1週間ほど前の事を思い返しつつブルースは答えた。
「友人にねだられたんだ。掛けている所を見たいと」
「…友人?」
 くっきりした眉を僅かに寄せて、クラークが眼鏡とブルースを交互に見やる。その気になればどちらも跡形も無く焼き尽くせる視線を、恐れもせずにブルースは頷いた。なるべく自然に見えるよう気を払いはしたが。
「ああ」
「女性の?」
「そんな事を“おねだり”する男がどこに――」
 言い掛けてブルースは口を噤んだ。目前の男をたっぷり3秒眺めてから頭を振る。
「…いや、良い、忘れてくれ」
「そうしよう。で、君はただのお付き合いで買った眼鏡を、家で使うくらい気に入っている訳だね」
「今日は随分と刺があるな」
「気に入らないかい?」
 やや唇を尖らせてクラークが詰め寄って来る。ブルースは曖昧に首を振った。
「気にはなる。ただ」
「ただ?」
「お前がいる時には掛けないでおこう。そうヒートビジョンが出そうな目をされてはな」
 眼鏡を畳んで片眉を上げるブルースに、クラークは慌てて目元を手で覆った。喉の奥で笑いを殺しながら、ブルースは眼鏡ケースを取り上げる。
「ま、まさかそんな」
「出ていない。安心しろ」
「良かった。……あ」
 ようやく目を解放したクラークが、眼鏡を仕舞おうとするブルースを遮った。
「何だ?」
「いや、掛けてくれて構わないよ?君に良く似合っているんだし、勿体無いじゃないか」
「寛大になったものだ」
 ブルースは手の眼鏡に視線を落とす。それから眉尻が下がり、困ったような表情になっているクラークに、眼鏡を振ってみせた。
「矢張り今日は止めておこう」
「え、でも」
「そろそろ出掛ける時間だからな」
 窓の外の深い闇を確かめてから、ブルースは唇の端に微笑を刻む。
「あの格好で眼鏡を掛ける訳にもいかん」
 眼鏡を掛けた闇夜の騎士を想像しているのか、一瞬遠い目をしてからクラークも笑った。
「それも悪くなさそうだけど?」
「…タイツに眼鏡とは趣味が悪過ぎるぞ。ほら」
「あ、うん」
 手の中の眼鏡を開いて、ブルースはクラークに差し出した。いつもとは逆に眼鏡を掛けてやる。伏せられた睫毛にレンズがぶつかりそうだったが、それを除けば他は支障無さそうだ。
 閉じられていた青い瞳がぱっちりと開き――次の瞬間、クラークはふらりとブルースの方に倒れこんだ。
「おい?!」
「ぶ、ブルース、これ、度が」
「ああ、矯正を兼ねて入れて貰ったからな……おい、まさか」
 べったりと掛けられた体重を支えながら、ブルースは眉を寄せる。
「酔ったのか?!」
「度入りの眼鏡は初めてなんだよ……」
「なら、いつものあれは伊達だったのか……」
 意外な事実に驚きながら、ブルースは外そうとクラークに手を伸ばす。しかしクリプトナイトを突き付けられたような彼は、足が縺れたのか一気にブルースに圧し掛かった。
 眼鏡に気を取られていたブルースは、思わず背後の長椅子に倒れ込んでしまう。その上にクラークが覆い被さった。
「…っお前は!しっかりしろ!」
「だ、だって視界がぐるぐるして……」
「ちゃんと手を付け…違う!それは私の足だ!」
「あああごめん!痛くなかったかい?!」
 もたもたと長椅子の上を蠢く2人の耳に、その時小さなノック音が聞こえた。
「アルフレッド?」
「左様でございますブルース様。先程赤いケープの方が“地下室”にいらしたご様子ですが――」
 ドアの向こうのアルフレッドは、何を思ったのかそこで言葉を切った。
「お邪魔して申し訳ありませんでした。失礼致します」
 踵を返す気配と去り行く足音が、静かになった部屋に響く。
「……誤解だアルフレッドー!」
 自分を押し倒しているクラークを跳ね除けると、ブルースは猛然とした勢いで駆け出した。

「やっぱり封印して貰おうか……」
 ブルースに放り出され空中にふわふわと浮きながら、クラークはようやく外した眼鏡に溜息を吐くのだった。

眼鏡っ子な2人も萌えです。

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