鳴らしたベルが響き終わるよりも早く、ドアが金具を壊しかねない速さで開かれた。
中から現れた部屋の主もそれに気付いたらしい。視線はブルースにではなくドアの蝶番へと向けられている。微苦笑を僅かに噛み殺し、ブルースは手にした大きな封筒をクラークに振ってみせた。濃紺のインクで書かれたメトロポリス大学の名が、ブルースの手の動きに合わせて軽く揺れる。
「郵便が来ていたぞ」
「あ、ありがとう!」
しまったと言わんばかりに下がっていた眉尻が、たちまち元通りになった。表情の変わる早さも弾丸より何とやららしい。ブルースは差し出した封筒の陰で、僅かに唇の端を緩めた。
いつも通りに誠心誠意もてなそうとするクラークを、封筒と共にソファへと押し付けて、ブルースは2人分のコーヒーを淹れた。2つのマグカップを持って振り返れば、クラークは案の定熱心に、封筒から取り出したらしいプリントへと視線を注いでいる。
「同期会の知らせでも?」
「うわ」
気配を殺して背後からそう囁けば、素っ頓狂な悲鳴が上がった。笑いを噛み殺してマグを置くブルースにクラークが唇を尖らせる。
「酷いじゃないか、いきなり近付くなんて」
「気にするな。それで内容は?」
「…推理の通りだよ、“探偵”さん」
どこぞのエコテロリストを思わせるような口ぶりだったが、ブルースは気にせずプリントを覗き込んだ。確かに大きく「同期会のお知らせ」と書かれてある。
「割と頻繁にあるんだけど毎回出られなくてね。仕事とか……別の仕事とか」
「ああ、分かる」
パーティやら結婚式やらの招待が来ても、易々と出席可能だとは答えられない。急な予定が入るのは最早ヒーローの職業病だ。
「君は?」
「招待なら数回あるが……出席しても大学が嬉しがるとは思えん」
「…確かに、あの君しか知らない人はね」
“ブルース・ウェイン”の奇行を思い出しているのか、クラークは目をどこか遠くへさ迷わせながら頷いた。そうだね、とすぐ同意されなかった事が救いだろうか。マグカップの熱い取っ手を握りつつブルースは苦笑した。
「一応、専門には熱心だったんだが」
「犯罪心理学の?」
「ああ。ただ学部生向けの講義は殆ど無かったから、大学院に潜り込んだり、教授に尋ねたり……そう言えばメトロポリス大にも良く行ったな」
「へえ!」
クラークがぱっと目を輝かせた。持っていたプリントを机に置き、ブルースの方へと膝を寄せて来る。
「じゃあ正門広場の、時計が掛かっていた建物が分かるかい?」
「ああ、分かる。水色の棟だな?」
「そうそう、そこで僕はゼミを受けていたんだよ!…案外キャンパスのどこかですれ違っていたかもしれないな」
「いや」
楽しげに微笑むクラークに、悪いと思いながらもブルースは首を振った。
「すれ違っていたとしても、その……」
「…何か不都合な事でも?」
語尾を濁すブルースへと、クラークが顔を曇らせる。話そうかしばし迷ったが、ブルースは結局口を開いた。持つのが難しいほど熱くなったマグカップは、封筒にコーヒーを飛ばさぬよう、机の上にそっと置く。
「こう言うのも何だが、私は有名人だろう」
「君が無名だったらタブロイド紙は廃業しているよ」
「…認めたくない事実だな。それはともかく、私はその頃から既にヒーローとして活動する事を考えていた」
興深げにクラークは黙って頷く。先を急かさないのが有難かった。
「教授に話を聞くとなれば、どうしても名乗らねばならない。だがウェインの名前で赴けば嫌でも記憶に残る。万が一の可能性ではあるが、私とゴッサムの蝙蝠を結び付けるのは避けねばならない」
「うん。幾ら教授が世間知らずでも、マクドナルドとウェイン・エンタープライゼスを知らないとは思えないな」
バーガーキングだと思ってウェンディーズに入った事がある、と以前ブルースに言った男は、真面目な顔でそう答えた。口先に浮かび上がった揶揄を無理矢理飲み込み、ブルースは更に続ける。
「そこで考えたのが偽名を使う方法だった。だが単に名前を偽るだけでは危険性が高い。私は折良く、変装術の習得にも励んでいて……まあ、何だ、分かるだろう」
うやむやな言葉で終わらせたが、どうやらクラークには検討が付いたらしい。ただでさえ大きな目が更に見開かれた。
「変装して大学に来ていたのか?!」
「声が高い」
「あ、ごめん……いや、ブルース、その、用心深さは必要なんだろうけど」
「分かっている。私も偽名程度にしておけば良かったと後悔しているんだ」
そう言ってブルースは僅かに唇を噛み、長い溜息が出ようとするのを押し留める。代わりにクラークがはあ、と相槌とも呆れの吐息とも付かぬものを吐き出した。
「若気の至りかな」
「そう言う事にしておいてくれ」
「でも一体、どんな格好で来ていたんだい?心理学科の教授室とは結構近かったから、もしかすると思い出すかもしれないよ」
「思い出さなくて良い」
ブルースはそう言ってがっくりと首を落とした。かつて読んだ文献を屋敷で見る度に、脳裏に甦るあの悪夢。当時の腕前ではあれが限界だったとは言え、金輪際思い出したくないし、まさか思い出されたくも無い。
だが項垂れるブルースの傍らで、クラークはしばし学生時代の記憶探しに熱中していたらしい。しばし流れた沈黙は彼の呟きによって打ち消された。
「…もしかして、髪の毛はジャパンホラーに出て来そうな長さで、数十年前のヒッピーみたいな髭面に着ている紫色の服はずるずるで、しかもサングラスがワインレッドだったり」
「今すぐ忘れろ!」
「ブルース」
クラークはそっと、床に視線を注ぐブルースの肩に手を置いた。
「確かに忘れてしまいたい過去かもしれないけれど、でも僕は忘れたくないよ。だってそれも君の歴史じゃないか!」
「そう言う良い台詞は別の所で使ってくれ!」
「とりあえず同期会でその話が出たら、真っ先に君に報告するね」
「するなー!」
爽やか極まりない笑顔のクラークに、ブルースは視界が遠くなっていくような気がした。
結局クラークはハイウェイでの交通事故に駆け付けた為、同期会には出られなかったと言う。
果たしてその席で自分の話題が出るのか否か。戦々恐々とする頭に一瞬、クラークに変装して潜入と言うアイディアが浮かんだ事は――ブルースは生涯の秘密にしようと決めた。