本当に幾億もの命を抱えているのか。物音ひとつ立てずに動き続ける星を見ていると、不意にそんな疑念が浮かんでくる。息を潜め耳を澄ませば、地球から大勢の声が聞こえるとは言え、宇宙は余りに広く静かだ。
月面に立つウオッチタワーも、その静寂に身を浸しながら、静かに地球を見つめ続けているのが常だった。機械の作動音や、配されたモニターから流れる声音はあるが、それらは高い天井に当たって空虚に響くもの、と決まっていた。
しかし今日は、金属音や音声とは異なった音が室内を満たしている。紙と鉛筆が奏でる柔らかな二重奏に30分ほど聞き入った所で、クラークはモニターから目を離し、円卓に座っているグリーンランタンへと振り返った。首の動きよりもやや遅れて、座っていた椅子が軋み演奏を邪魔する。
「仕事かい、グリーンランタン?」
椅子の軋みに反応して、クラークの問いより早くグリーンランタンが顔を上げる。眉を寄せ頬を引き締めた神経質な表情は、ヒーローのものではない。イラストレーターであるカイル・ライナーのものだった。
だがすぐに自分でも気付いたのだろう。きつく結ばれていた唇がふっと和らぐ。見慣れた表情に戻った彼は、鉛筆を握ったまま癖の無い黒髪を掻き回した。
「耳障りだったかな?」
「まさか。そんな事は無いよ」
ただ、とクラークは付け足した。
「随分と真剣だと思ってね。僕が来る前からずっとなんだろう」
「…それがさ」
丸まっていた背筋を伸ばすように、グリーンランタンが机に広がるクロッキー帳から顔を離した。描かれているものの全貌は分からなかったが、密集している細かな線と、周囲に散らばる大量の消し屑はすぐ見て取れた。
乾燥した唇から零れる溜息と言い、どうやら煮詰まっているらしい。自分にも身の覚えのある事だ、とクラークが思っている内に、グリーンランタンは口を開く。
「俺達の企業秘密に関する事なんだよ」
「企業秘密?」
しかも俺“達”とは。何やら尋常ならぬ言葉に、クラークは椅子の背もたれを回し、グリーンランタンと円卓を隔てて向かい合った。
「この前、結構でっかい仕事が回って来てさ。商品広告に使うんだ」
「へえ、凄いじゃないか」
「だろ」
率直に口に出したクラークに、ランタンは唇を綻ばせた。それでもすぐ、ふっと眉の辺りが曇ってしまう。
「で、喜んで引き受けたんだが、そのコンセプトが問題で……」
「どう言う所が?」
与えられた答えは言葉ではなく、ランタンが持ち上げたクロッキー帳だった。
雑然と紙の中に描かれている人物達はどれも男性だ。しかも、体に張り付く生地で出来た奇抜な服や、人物より巨大なケープを纏った――クラークにとっても見覚えある姿の。
ただクロッキー帳の彼らの可笑しい点は、中途半端であった事だ。下半身はタイツ姿だが上半身はスーツの者や、左半身は薄い雲に包まれている者など、完全なヒーローらしい格好をしている者は1人もいない。
クラークが首を傾げた所で、グリーンランタンは草臥れた声を発した。
「それがさ」
「“これを飲めばヒーローになれる、と言う点を強く出したいので、一般人がヒーローに変身している所をお願いします”――だって」
「…それはまた……」
「企業秘密だろう?僕らの」
そう言ってクラークは軽く肩を竦めてみせた。
アパートの部屋にも温かな日差しが入るようになったとは言え、夜中の慈善活動が終わる頃はすっかり冷え込んでいる。強度を上げた空調は鼾のような音を立て、コーヒーを淹れ終えたブルースの髪に乾いた風を吹き付けていた。
それでも、クラークの足元に漂う空気はまだ寒々としていたが。
「他のヒーローとも重ならないように、と考えているようでね。余計に大変みたいだ」
「お前の方法は?」
「聞かれたけれど秘密にしておいた」
無言で頷くブルースが、卓上に1つだけのマグカップを置く。黒々とした中身を覗き込み、クラークは微かに眉を顰めた。
「またブラックかい?眠れなくなるだろう?」
「…もう体が慣れている。それに、忠告があるなら淹れる前にしてくれないか?」
コーヒーよりも苦い顔付きでブルースがマグカップを取り上げる。もっともだと思いながら溜息を吐いたクラークは、何とはなしにシャツのボタンを外していった。
第2ボタンの辺りまで外すと、中に着ているタイツの青が蛍光灯の下で浮かび上がる。正体ほど厳密に隠している訳ではないが、この事も矢張り秘密にしておきたいものだった。もし脱いで変身するのだと知られて、ただでさえ数を減らした電話ボックスに監視カメラでも付けられたらどうなる事か。
まだ半分ほどシャツの中に潜んでいる、シンボルマークをクラークは掌で撫ぜた。
「ランタンは」
横から掛かった声に視線を上げると、ブルースは指先を温めるようにマグカップに手を回していた。独り言のように彼は小さく唇を動かす。
「指輪からコスチュームが出て来るのだったか」
「ああ、そうだよ。…そう言えばフラッシュと同じだって言ってたな」
パワーリングと異なる指輪をしげしげと見つめ、感嘆の声を上げていた。あの時のフラッシュは、矢張り企業秘密だと唇を尖らせ、すぐにランタンから指輪を取り戻していた。恐らく自分と似た方法の相手がいる事に、少々機嫌を損ねていたのかもしれない。
思わず頬を和ませたクラークだったが、同じ、と言う事がふと気に掛かった。珍しくぼんやりと虚空に目をさ迷わせていたブルースへと首を傾ける。
「君はどうなんだい?」
「うん?」
「変身だよ。ケイブにいる時ならともかく、外に出ている時なんてどうするんだ?」
例えば今日のようにメトロポリスにやって来ている時は。
そこまで言ってようやく、ブルースの目にいつもと同じ明瞭な色が戻った。ひょっとすると眠かったのだろうか、とクラークはつい後悔したが、こちらに向けられた顔に再び疑惑が過ぎる。
僅かに寄せられたブルースの眉には、困惑の色が少なからず浮かんでいたからだ。
「それは、着替えを持ってだな」
「本当に?その割には鞄が小さいじゃないか」
歯切れの悪い答えについクラークは身を乗り出す。ブルースが防波堤でも作るようにマグカップを置く。カップから離れた指先が、クラークの問いに詰まった喉元へと向かう。
長い指先がシャツの襟を掴む様に、まさか、とクラークは予想が浮かぶに任せて腕を伸ばした。
「おい!」
「もしかして、君も?」
「止せ!」
ブルースが腰を浮かせるよりも、クラークが覆い被さるのが早かった。振り上げられる手足の勢いは鈍く、彼の疲れを如実にクラークへと伝える。
常ならばここで引く所だが、一歩も退かなかったのは自分も疲れていた所為かもしれない。それと同時に、服を脱がせようとする試みが、ベッドの上での行為とさして変わらなかった故か。
「クラーク!」
どちらの理由にせよ、クラークは片手でブルースのボタンを外す事に成功した。
暗い灰色のタイツ生地が顔を覗かせるまで、第3ボタンの陥落を待つまでも無かった。蝙蝠の印が現れた途端、ブルースが諦めたように力を抜いて横を向く。くっきりと曝け出された首筋がクラークを我に返らせた。
慌ててシャツの襟と肩から手を離したが、見てしまった事に変わりは無い。
「その、君もやっぱり中に着込む派だったんだね」
「…お前と違って四六時中着ている訳ではない。必要な時のみだ」
「暑くないかい?」
答えをじろりと横目で返されて、クラークは思わず背後に一歩退いた。先程とは打って変わった弱気な態度に、ふん、とブルースが鼻を鳴らす。セットの乱れた前髪が秀でた額にばらばらと掛かった。
「人の秘密を暴くとは流石だな、ケント君?」
「ごめん。もうしないよ」
「お前の“もうしない”は“多分”を付け足すべきだ」
もう一歩退こうとした踵に机の脚が当たった。仕方なくそのままクラークはあちこちに視線をさ迷わせる。勢いに任せてしまい申し訳ない気持ちはあったが、喉の奥では「お揃いじゃないか」という言葉が転がっている。
黙ってしまったクラークの袖を、しかしブルースが掴み、ぐいと引いた。
「うわ」
「それで?」
「それで、って」
訳も分からず問い返すクラークに、ブルースが目を細める。長い指がくつろいだ襟元を示した。
「ここまでした責任をどうやって取るつもりだ?」
挑発的な言葉と共に彼の視線が揺れ動く。クラークが肩越しに振り向いた先にあるのは、先程のマグカップだった。中身のブラックコーヒーはもう半分ばかりに減っている。
眠れなくなるだろう、と自分の言った台詞が頭の中で繰り返された。もう1度ブルースに向き直れば、白かった首筋が薄っすらと紅色に染まっている。
――そう言う事か。
唇を綻ばせながらクラークはブルースに近付いていく。こめかみの辺りに口付けたまま、クラークはひっそりと囁いた。
「脱がし方も同じで良いのかい?それとも、秘密?」
無言のまま襟を掴まれたのは、前者だと思う事にした。
それから1週間ほど経った頃、クラークはブルースとウオッチタワーにいた。
特に異常も無いまま時間がゆっくりと過ぎていく。そろそろ交替の時間か、とクラークが時計に目を巡らせたのを見計らったように、扉の開く音がした。
「スーパーマン!」
駆け込んで来たのはグリーンランタンだった。小脇には何やら大量の紙束が抱えられている。
「グリーンランタン、やかまし――」
「見てくれよこれ!!」
ブルースが注意を言い終えるより早くランタンはクラークに1枚の紙を差し出す。余りに意気込んだ様子に、ブルースは呆気に取られたらしく口を噤んだ。が、クラークが見て取れたのはそこまでで、後は視界がランタンの差し出す紙に覆われてしまう。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。これは?」
「前言ってた仕事の絵だよ!成功したんだ!」
「へえ」
どれどれ、とクラークは改めてランタンから目前の紙を受け取った。
大きく画面を占めるのは1人の男だ。着ているジャケットを大きく肌蹴たその人物の姿に、クラークは思わず言葉を呑んだ。
何時の間にか横から覗き込んでいたブルースも何も言わない。口が僅かとは言え開いている所を見るに、クラーク同様絶句しているらしい。
「なかなかだろう?普通はヒーローがコスチュームを中に着ているなんて、思いもしないだろうからな!いやもうオリジナリティがあるって大好評だったよ」
「…そ、そうか」
「良かったな」
声の上擦ってしまったクラークを補佐するように、ブルースが続けざまにそう言う。その言葉にグリーンランタンは頬を輝かせた。
「あんたから褒められるなんて嬉しいよ!これは生涯で5本の指に入るな」
「は、発表されるのは何時なんだい?」
「発表?いや、それは……」
グリーンランタンは照れ臭そうに微笑む。
「悪いけど、企業秘密なんだ!」
その言葉にクラークはブルースと顔を見合わせ、軽く肩を竦めた。