「じゃあ、出て行くから」
「勝手にしろ」
眉ひとつ動かさずブルースは言った。
雪降る厚ぼったい曇り空の下に、僕は小さなバッグひとつで飛び出した。
適当な安ホテルを見付けたのは、ヒーローの時間まであと5分を切った頃だった。
「ついてないの」
ぐっしょり濡れたスニーカーを揺らしながら僕はぼやく。これを一目見て惚れ込んでしまった理由は、ロビンにぴったりな赤にあった筈なのに。既に焦げ茶色へ変色してしまったそれは、乾くまで当分掛かりそうだ。
小さな窓の外では、ホテルに駆け込んで来た時よりも激しく雪が舞っている。向かいのクラブに掲げられている看板も、くすんだ灰色と白に塗り込められて良く見えない。晴れていたらどぎつい原色が拝めたのだろう。ブルースが眉を顰めそうな店名と一緒に。
――ブルース。
ちらりと浮かんだしかめっ面を、僕はすかさず頭のゴミ箱に投げ込んだ。きっちり蓋を閉めて鍵を掛けて、もう出て来ないよう厳重にしておく。ここ最近は随分と悩まされたんだから、今日くらいは考えないでおきたい。
ベッドの枕に顔を埋めて、いつものシーツとは比べ物にならない生地に包まった。もう寝よう。
目を瞑れば風の鳴き声が耳につき始めた。がたがたと小さく窓ガラスも揺れている。だけどウェイン邸にある僕の部屋だって、結構窓の立て付けは悪かったんだ。
それでも気にならなかったのは何故だろう。
頭のゴミ箱が勢い良くはじけて、ブルースやバットマンやロビンの姿が飛び出して来る。アルフレッドの顔まで浮かんだ。よせよせ、と呟いても罵っても彼らは消えてくれない。
「止めろよ」
はっきり声に出すとその像は綺麗に消えて、代わりにサーカス小屋が目の前に現れた。
ああ初めてウェイン邸に寝泊りした頃は、窓のがた付きなんて気にする余裕も無かったんだ。僕の五感は全てあのサーカス小屋に集中していたんだから。
別のぼやけた光景が浮かぶ。冷たく暗い路地裏が。
――ブルース。
その頃のブルースも、あの頃の僕と同じだったんだろうか。僕は窓を気にし出して、アルフレッドに文句を言うようになったけれど、ブルースもそうだったんだろうか。
ブルースも今頃、1人で風の音を聞いているのだろうか。
僕はベッドから抜け出した。震える窓ガラスに近付きそっと手を触れる。真っ白に曇っていたガラスはやがて、手の温もりで溶けて外の風景を映し始めた。
灰色と白に塗られた街に一瞬、蝙蝠の黒が過ぎり、すぐ消えた。
「ただいま」
朝日に照らされた雪をかき分けて、ウェイン邸に辿り着いた僕を、ブルースは奇妙な生き物に会ったような目で見下ろした。
幾ら全身雪塗れだからって、まさかイエティやビッグフットと勘違いしてないよな。そう言おうとして口を開いたら、大きなくしゃみが出た。
「……雪を落として中に入れ」
そう言いながらブルースは手を伸ばして、僕の頭に乗った雪を払い落とした。
もう1度くしゃみが出たけれど、やっぱりブルースは眉ひとつ動かさなかった。後ろではアルフレッドが、赤いタオルを構えて立っている。
焦げ茶色に染まったままのスニーカーに視線を落とし、僕は笑った。
その拍子に溶けた雪やら水滴やら水っぽい何かが落ちたけど、見なかった事にした。