「すまん、ありがとう」
カーペットの上に針が落ちた時のような声で、グリーンランタンがそう言った。果たして言われた相手に聞こえたかどうか分からない。それでも応じるように片手を上げる姿が、僕の前に広がるモニターに反射している。
ランタンの手には鞄と、茶色い紙袋が握られていた。紙袋の形からして中身は本だろう。袋の嵩もあるだろうがそう厚くなかった。
中に何が入っているのか気になったけれど、覗きは犯罪だ。人のプライベートは守りたい。それに振り返らなきゃ透視出来ないし、振り返ったら絶対2人に怪しまれる。
だから僕はモニターを見つめる振りをしながら、そこに反射している2人の姿を見るしかない。
やがて呆気なく2人は距離を取った。ランタンが紙袋を鞄に入れた途端、扉が開いてばさりと豊かに翼が鳴る。ホークガールが入って来ると同時に、ランタンが微かにほっと息を吐く音が聞こえた。恐らく安堵の溜息だろう。
「帰るの?気を付けてね」
「ああ、お疲れ様」
やっぱりこう言う時の挨拶は職場と変わらないよな、なんて思いながら僕はモニターを見つめる。ランタンの背中はすぐに閉じた扉で見えなくなった。一体何を受け取ったのだろう。ホークガールに見られたくない物だとしたら、それは矢張り――
だが思い出が湧き上がる前に、眼前のモニターに夜の帳が降りた。
「覗きは癖になるらしいな」
耳朶を擽るその声に僕は肩を震わせた。7割方は驚愕から、残り3割は少々言い辛い理由からで。
「…気配を消して驚かせるのも癖になるんじゃないか?」
「誤魔化すな」
僕は詰まった。どう考えても先程のは覗き見だ。怒られてもしょうがない。
「悪かった」
素直に謝って振り向くと、マスクの下の唇は意外にも笑みを含んでいた。彼一流の皮肉な笑みでもない。もう1度驚いて目を丸くした僕に、ブルースはそっと囁いた。
「気になる理由も分からなくは無い」
「それは良かった。…中身は、本?」
静かにブルースは頷く。ホークガールに視線を向ければ、彼女は椅子に座って何やらメイスの様子を確認しているようだった。声を潜めたまま僕達は語り合う。
「極めて文芸的な内容の、な」
「へえ」
それはそれは。思わず僕はまじまじとブルースを見つめてしまった。怪訝そうにブルースの眉間に皺が寄る。彼のマスクは存外柔らかく、慣れれば色々な表情を読み取る事が出来る。まあ、ブルースが色々な表情を――例えばフラッシュのように形作る訳ではないが。
「そんなに驚くような事か?」
「驚くよ。ランタンだって君だって、その、真面目な……」
「待て」
言葉を選びながら呟いていくと、がっしりと肩を掴まれた。本物の蝙蝠が肩に止まってもこんな感じなのだろうか。篭もる力の強さに首を傾げると、ブルースは1度ホークガールの方に目をやってから早口で囁いた。
「何か勘違いしていないか?」
「え、だって、女性に見られたくない極めて文芸的な内容と言えば、それはほら――」
最後まで言わせる気なのだろうか。幾ら男同士とは言え少々恥ずかしい。視線を逸らしながらそう言うと、ブルースがもう片方の肩まで掴んで来た。いや、掴んだばかりではなく、激しく揺さぶって来た。
「ぶ、ブルー、ス?」
「お前は一体何を考えて……!幾ら自分が飛べるからと言って、考え方まで飛ばせて良いと思っているのか!極め過ぎだ!」
「そ、そそそっち系の本じゃなかったのかい?!」
「どっちだ!」
舌を噛みそうになりながらも、僕は考えていた系統を口にしようとした。が、幸いな事に、僕とブルースの間にするりと銀色の何かが割って入る。ブルースが背後に仰け反ったのが僅かに見えた。
この、視界の大半を占めている、鋭く尖った物はもしかして。
「そこの2人」
ぎらりと鈍く、百戦錬磨を誇る輝きがその表面を彩った。
「黙って」
威嚇的な、もっと言えばどすの利いた声音は性別を感じさせない。突き出された刺だらけのメイスよりも、その声の方が僕らを黙らせる。
ホークガールは唐突に湧き出た静寂へ満足そうに頷くと、細い顎でくい、とモニターを示してみせた。
海岸線を密集して飛ぶ緑色の円盤と、混乱している街の人々の姿。早口でまくし立てるアナウンサーの声に、仮面越しの瞳が先程のメイスと同じ輝きを宿す。
「場所はニューヨーク!行くわよ!」
全財産を賭けても構わない。
高らかに宣言し翼を広げたホークガールは、間違いなく僕らよりも格好良かった。
「バットマン、その、だな」
2週間後、グリーンランタンが周囲を見渡しながら、矢張り細い声でブルースを呼び止めた。
そんなに隠したいなら僕のいない場所でやれば良いのに、と思う。でも考えてみたら僕の聴力はウオッチタワー内を完全にカバー出来る。いない場所でやっても無駄と言えば無駄だ。
果たして繊細なのか図太いのか分からないランタンは、例の紙袋をブルースへと渡した。勿論、僕はと言えば、この前と同じ位置でモニターを見守っている。今度はなるべく反射している光景を見ないようにして。
「役に立てたか?」
「ああ、分かりやすかった。矢張り図版があると違うな。…彼女の話も前より理解出来た」
「それは良かった」
照れた様子でランタンは少し微笑む。それにブルースも頷くが、こちらの表情も声もやや固い。2週間前の醜態が甦るのだろう。気持ちはとても良く分かった。
どうやらランタンは、ホークガールの話題に付いて行きたかったらしい。歴史好きで、特にエジプトとなると目を輝かせる彼女の事だ。恐らくランタンにも熱く自身の趣味を語ったのだろう――マスタバ墳墓とかサッカラの階段ピラミッドとか、屈折ピラミッドとか。
ああ、殆ど分からなかった僕でもこれだけ記憶してしまっている。凝り性と熱意ならブルース以上だ。何か止められない気迫があるんだよなぁ。
彼女の話題に答えられるのは目下ブルースと、「ああ覚えているわ!懐かしい!」と凄い相槌を打つワンダーウーマンくらいだ。その中に入ろうとランタンは頑張ったのだろう。確かに、経験者と言うか生き字引なワンダーウーマンよりも、入門にはブルースに頼る方が良いに違いない。何となくだけど、彼女は頼んだら本物のヒエログリフとか持って来そうな気がする。
ただ、これらはブルースが語った事ではない。内密にとの願いを受けて彼は具体的な話を拒んだからだ。流石はブルース、頼り甲斐がある。しかしともかくこれは僕の推測に過ぎない。
いっそ振り返って透視したかったけれど、自分の勘違いと八つ当たりでランタンのプライベートを暴いては可哀想だ。9割方は暴いてしまったようなものだけど、止めておこうと僕の視線はモニターから微動だにしていない。
「また覗き趣味か?」
だから今度はそう真横で言われても、先日ほどは驚かなかった。僕は余り彼らを見ていない。
「そう言う君こそ、ストーキングとか尾行とか癖になっているんだろう」
「必要だからだ」
「認めるんだ……」
思わず顔を上げると、ブルースは無言でとんとんとモニターを突いてみせた。慌てて僕はそちらへ視線を戻す。
「…とにかく先日の件は水に流そう」
「……嬉しいよ」
腹は立つが負い目のある身としては逆らえない。眉を寄せて僕はモニターを見つめた。ヒートビジョン制御の特訓がこんな所で試されるとは。
「だが私も驚いた」
「何を?」
ブルースが横でにやりと笑う。
「お前も高校生のような事を考えるんだな、ミスター・ボーイスカウト?」
「ブルース!」
「折角だから今度何か貸そう、リクエストは?」
わざとらしい程に甘い声音で彼は言う。全くもって悪魔のようだ。耳朶が燃えるように熱い。
だけど、助け舟を出すように、折良く扉がさっと開く。いつぞやと同じように入って来たホークガールに、僕らは揃って固まって――その瞬間、何かに押されて僕の唇はとても滑らかに動いていた。
「じゃあ、君の好きな事に関する本を」
僕の肩に乗っていたブルースの手が、火傷したようにびくりと震えた。ヒートビジョンなんて出さない目で彼を見上げると唇が僅かに開いている。
前言撤回をしなければならない。彼の表情はフラッシュほどころころと変わらないが、十分に豊かだ。
微笑み掛けると手が離れ、むっつりと唇を結んだ彼はホークガールと代わるように歩いていく。ケープの裾がゆらゆら揺れているのは動揺の所為だと思いたかった。ブルースが部屋を出て数歩もしない内に扉は閉まる。
「またじゃれ合ってたの?貴方達って本当に仲が良いのね」
呆れた声のホークガールに僕はブルースに向けるつもりだった微笑を浮かべ、「まあね」と力一杯頷いた。