JUMP!

 森の監視カメラが壊れた。
 そう言い残してブルースが出てから15分が過ぎた。彼の足と敷地の広大さを考えると、そろそろ森に入った頃だろうか。修理と帰りの道程を計算に入れれば、あと40分は帰って来られまい。
――オレがやるって言ったのに。
 テリーは少しだけ唇を尖らせて柱時計を眺める。10代の青年が暇を潰すには、ウェイン邸は余りに静かだ。蝙蝠がゴッサムの空を舞う時刻にもやや早い。エースは尻尾を振って主人に付いて行ってしまった。
 たまには表向きの口実である、アルバイトらしい事をしようと、早めに訪れたのが災いした。掃除であろうが修繕であろうが、ブルースは自分がいない間に邸を動かされるのを嫌う。だからこんなに黴臭いんだよ、とテリーは階段の手すりに指を滑らせた。厚いとは言えないが、薄くもない埃が溜まっている。たった1人でこの邸を保つ事など容易では無い。
――たまには任せろよな。
 濃い眉を寄せてテリーは正面玄関に面した階段を下る。何と無く邸内をうろつき回ってみたものの、苛立ち混じりの散歩が楽しい訳も無い。それに、奥に行き過ぎると矢張りブルースが怒る。彼の帰還までまだ間があるが、それでもテリーには行く気がしなかった。
 読書をする気も宿題をやる気も無い。バットスーツの掃除や調整をしようかと、テリーはまだ8段ほど余っている階段から飛び降り、足を揃えて着地した。伊達にバットマンを名乗っている訳では無い。運動神経には自信がある。
「お見事」
「全くだ」
 自賛に続けて掛かった声に、はっとテリーは顔を巡らせた。だが絨毯にいるのは声の主ではない。揺れ動く小さな影法師だ。
「だけど階段は普通に下りた方が良いな。危ない」
「…あんたこそ、普通に玄関から入って来いよ」
 水晶を散りばめたシャンデリアの横で、赤と青を纏う鋼鉄の男が笑った。
「そうするつもりでベルを押したんだよ。でも気配はあるのに、反応が無かったから」
「あ、悪い。聞こえなかった」
 監視カメラの修理よりも、屋敷中に響くベルを開発させなければ。しかし反省の傍ら、ようやく地に降り立ったスーパーマンにテリーは片眉を上げた。
「でも、だからって玄関を乗り越えるかよ?普通はしないだろ」
「…つい癖でね」
「ふーん」
 不法侵入癖のあるらしいヒーローは、申し訳なさそうに白髪交じりの頭を掻く。背中を少し丸めた姿はどこか滑稽だ。テリーは思わず小さく笑う。
「ま、良いか。ここじゃなんだから、とにかく応接間にでも来なよ」
「ブルースは?」
「監視カメラの修理作業。もうしばらく掛かると思うな」
 待つんだろ?と首を傾げたテリーに、予想に違ってクラークは首を振る。
「いや、これを渡しに来ただけだから。預かってくれるかい?」
 差し出されたのはギンガムチェック柄の裏張りがされたバスケットだった。
「……あんたって随分と乙女、や、古風なんだな」
「僕の趣味じゃないよ。従妹の子の物だ」
 奇妙な取り合わせだと自分でも思っているのだろう。クラークが苦笑しながら答える。受け取ったバスケットは温かで、微かにバニラシロップの香りがした。
「彼女がクッキーを作ったら凄い量になってしまったから、お裾分けにね」
「へえ、ブルース喜ぶよ。ちゃんと預っとく」
 まだ湯気を立てそうなそれを抱え直してテリーは言った。満足そうにクラークは頷き、早くも床から赤いブーツを浮かせ始めた。ケープの裾が蝶の羽根のように翻る。閃く茜色はふと、テリーの唇にある疑念を上らせた。
「そう言えばさ、スーパーマン」
「うん?」
「一体どこから入って、どこから帰るつもりなんだ?」
「ああ、それは――」
 微笑んだクラークが答えようとする、まさにその時、玄関の向こうでエースの鳴き声が響いた。
「――帰って来たようだね」
 既にシャンデリアの近くまで浮いたクラークが、答えを中断してそう呟く。振り仰いだテリーに向けて、彼は片目を瞑ってみせた。
「答えは彼に聞いてみてくれ。それじゃあ、また」
「あ」
 待てよとも言わせずに、赤と青の男は一筋の軌跡に変わり、風を残して消え去った。ほぼ同時に背後の扉が開き、かつての闇夜の騎士を館に迎え入れた。
「奴はどこだ!」
「…ブルース、早過ぎだろ。どうしたんだよ?」
「奴が見えたんだ。どこだ?!」
「あっち。帰ったよ」
 バスケット片手に、テリーは彼がいた方向を指し示す。相当急いで来たのだろう。大きく肩で呼吸していたブルースは、拍子抜けしたように目を見開いた。だがやがて、きっと眉を怒らせてテリーに向かう。
「奴を入れるなと言っただろう!」
「怒るなって、心臓に悪いぞ?」
「テリー!」
「だから、オレが入れたんじゃない!鋼鉄の男が不法侵入したんだって!」
 テリーがそう返すと、ブルースは振り上げ掛けていた杖をぴたりと中空で止めた。たっぷり3つ数えてから、ようやく元の位置に下ろす。
「…不法侵入だと?」
「そうだよ!大方どっかの窓を開けっ放しにしてるんだろ」
 全く、とテリーは胸を張った。自分に失態は何も無い。
「監視カメラよりも戸締りだな、ブルース?」
「……入った奴が悪い」
 床に落としていた視線を上げて、ブルースはそう言い切った。そしてさっさとテリーに背中を向け、ケイブへ通じる部屋に歩いていく。
「強盗にそんな理論が通じると……ってブルース、探しに行かないのか?」
「もう時間だ。お前が出て行ってからにする」
 にべもない答えにテリーは憤った。わざと足音を立てながらブルースを追う。エースもバスケットに鼻を寄せながら付いて来た。ブルースは無言で、そして常よりも早い足取りで歩いていく。やがて彼はケイブへの道を開くべく、入り口の時計を調整し始めた。
 その背中を見ている内に、テリーの脳裏に閃きが宿った。そうっとブルースの耳に唇を寄せて囁く。
「…もしかしてさ、オレの知らない秘密の入り口みたいな所がある!とか?」
「!」
 開いたばかりのケイブへの道に、ブルースの杖先が激しく当たった。こだまする音にエースがぴくりと耳を立てる。その音と、何より思った以上の反応に、テリーは驚いて叫ぶ。
「あるんだ!」
「無い!」
 勢い良く振り返ったブルースの胸にバスケットを渡し、横をすり抜ける。一足先にケイブへの階段を駆け下りながら、テリーは背後のブルースに叫んだ。
「それ、スーパーマン専用って考えてもいいの?!」
「駄目だ!」
 荒い語尾に入り混じった照れを、そうと取れないほど短い付き合いではない。テリーはそのまま足を動かして、最後の数段で先程のように飛んだ。
「テリー、階段は普通に下りろ!」
 続いて降って来た言葉に、テリーはとうとう吹き出した。

ここでの蝙蝠の部屋の窓は、何十年経っても開いております。

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