かぎをかけて

「いい加減、セキュリティを考え直したらどうだ?」
 アパートの郵便受けに掛けた鍵は、その辺で買った適当な安物だ。小さい上に鍵穴の滑りも悪く、クラークはいつも四苦八苦させられている。
 今日も壊さぬようささやかな力を鍵へと込めている背中に、ブルースがそう声を掛けたのだ。
「え?」
 何を言われたかは分かっていたが、あえてクラークは聞き返した。うんしょ、と何とか鍵を差し込むが、回そうとすると嫌な手応えが返って来る。
「それと言い部屋と言い、警備体制を考え直せ。この辺りの治安は確かに悪くないがな、妙な手合いがいない訳ではないだろう」
「大丈夫だよ。盗られて困るものはそんなに無いし」
 盗られて困るコスチュームは常に自分が着ている。現金も身に付けている。あとは写真や今まで書いた記事の類だが、それを盗むような泥棒もいまい。ようやく鍵を捻り郵便受けを開くと、どっさりダイレクトメールが詰まっていた。
「むしろこれを盗んでいって欲しい位だ」
「個人情報を流されて数倍の量が来る事になるぞ」
「それは御免だね。…待たせてごめん、部屋に入ろう」
 いつも鍵を入れているコートのポケットへとクラークは手を伸ばす。しかし指先がポケットに入り込んだ直後、ブルースが首を振って郵便受けを示した。
「差しっ放しだぞ」
「あ」
 冬の風にぷらぷら揺れている鍵束を、クラークは慌てて抜き取った。



 部屋に入りソファに腰掛け、クラークが湯を沸かし終えると、ブルースは待ち兼ねたように先程の言を口にした。
「大体お前は危機管理が甘過ぎるんだ。要塞も付けてあるのが天候装置だけとは」
「君のケイブだって僕が簡単に入り込めるじゃないか。おあいこだよ」
「それはお前だからだ。全ての洞穴の入り口には防備装置が付けてある」
 どんな、と聞かずともクラークには予想が付いた。恐らく電撃か毒ガスか。生命の危機は及ぼさずとも、えげつないダメージを与えるような代物なのだろう。思わず目元を顰めたクラークに、ブルースは2人分のマグカップを並べながら肩を聳やかした。
「…当然の自衛だぞ」
「手段の為に目的を忘れるタイプだ、って言われた事は無いかい?」
「目的も手段も忘れるタイプよりはましだな」
「僕は大丈夫だよ」
 ヒートビジョンで沸騰させた湯をクラークはカップに注ぎ入れた。ティーバッグがふわりと湯の中で浮かび上がり、カップの中を薄茶色に染め始める。素早くブルースが腕時計に目を走らせた。
「君の言う通りこの辺りは治安も良いし、僕には狙われるような覚えが無い。もし泥棒が入ったとしても盗られて困るのは家族の写真くらいだ。郵便受けも手紙や書類を盗まれたら困るけど、それこそ身に覚えは」
「甘いな」
 ティーバッグをブルースが抜き取って小皿に置く。それをゴミ箱へと捨てに向かいながら、ブルースは低い声音で朗々と言葉を述べていった。
「犯罪者は相手を選ばない。それに“今の”お前は確かに一般市民だが、記者だろう。狙われる可能性は高いぞ」
「だけど自分で何とか出来るさ」
「留守中に来たらどうする」
「だから盗られて困るのは家族の写真……ああもう、良いじゃないか。君に関係するような物は一切ここには置いていないだろう?安心してくれ」
 つい語気を荒げながらクラークはマグカップを差し出した。だがブルースは受け取らない。手を下ろしたまま、ひたと灰がかった青い瞳でクラークを見つめている。
 気まずい沈黙と静止の時は、珍しくブルースの唇で破られた
「お前は」
「うん?」
「お前は、私が自分の保身の為だけに言っている事だと、そう思っているのか」
 刺々しさなど微塵も無い口振りであったのに、クラークには横っ面を強く打たれたように感じられた。
 指先に伝わった衝撃が、震えとなってマグカップの中を揺らす。黙り込んだ部屋の中、紅茶がびしゃりと机に落ちる音は妙に生々しく響いた。それでもカップを持ったまま立ち竦むクラークの傍らを、ブルースが音も無く過ぎていく。
 帰るのかと息を潜めたクラークだったが、しかしブルースはすぐ戻って来た。シンクの上に置いていたタオルを持って来ただけらしい。彼は何も言わずに紅茶で湿った机と、飛沫の落ちた床を拭いた。
 屈み込んだブルースの背中を見つめながら、クラークはゆっくりと、慎重にカップを机に置き――膝を曲げた。
 同じ高さになったクラークの顔に、ブルースがついと視線を向ける。その手からタオルを取り、クラークは殆ど乾いた床をまた拭き直した。タオルはついでにクラークの指からも紅茶を吸い取ってくれた。
 綺麗になった床から、クラークはブルースへと視線を移す。黄昏を終え闇夜を迎えようとする、冬の空に良く似たその瞳が、クラークの顔を映し出していた。ブルースに真っ直ぐ向けた瞳も、やや頼りなく震える唇も。
「――クリスマスプレゼントには、錠前をお願いしても良いかな」
 ブルースが瞬きする度に自分の顔が過ぎり、その眉尻がどんどん下がっていく。駄目だろうか、と問い掛ける寸前、ブルースはタオルに手を伸ばした。正しくはそれを掴むクラークの手に。
「私の欲しい物をくれるなら考えよう」
「何だい?」
思わず硬くなったクラークに、ブルースが囁く。
「…この喧しい口を閉ざすものだ」
 一瞬考え込んだクラークの手の甲を、細長い指先が軽く擦った。そんなものがどこに、と行き止まりにあった思考が花開くように広がる。クラークはそっと顔を寄せて呟いた。
「クリスマスには少し早いけれど、…それなら今すぐプレゼント出来るよ」
「そうか。なら――今貰おうか?」
 キッチンに屈み込んだまま、2つの唇がそっと触れ合う。
 少しばかり早いプレゼントの受け渡しを眺めるのは、クリスマスツリーでもサンタクロースの人形でもなく、冷め掛けた分厚いマグカップだった。

メリークリスマス。

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