「クリプトン語を学びたい」
 ブルースがそう口にした途端、夏空の瞳は輝きを増した。
「協力するよ!…出来れば、僕に教えさせてくれないか?」
「ああ。勿論お前に頼むつもりだった」
 薄い唇が花開くように綻ぶ。無理もない。彼とその言葉を共有出来る相手はいなかったのだ。もっと早くに言い出せば良かったと、決して知られたくない後悔をブルースは覚えた。
「君が言ってくれて良かったよ」
 満面の微笑が、ふと照れ臭そうな色を帯びた。丸い指先が頬を掻く。
「実はもう随分と前から、教材を作っていたんだ。君に、その、是非とも喋られるようになって欲しくて」
「…そうか」
 先程と同様の悔いが、ちくりとブルースの胸を刺す。それを誤魔化す為の皮肉や揶揄を言わぬようにと、思わず固く唇を結んだ。
 うん、と少々浮き足立っているらしい鋼鉄の男は、小さく頷いてから言葉を付け足した。
「クリプトン語で君に言って欲しい事が沢山あるんだ。ほら、外国語ならまだ恥ずかしくないだろう?“愛している”とか“大好き”とか、あと――」
 続きの言葉は、彼の額に貼り付けたスケジュール表が阻んでくれた。
 自らの空き時間を書き付けた紙に、自嘲混じりの冷たい視線を注ぎながら――ブルースは嫌な予感を覚えずにはいられなかった。

クリプトン語であそぼう!

「文字の対応が完璧だから、読みの方は少し覚えれば簡単に読解出来るようになるよ。喋る分には少し難しいかもしれない」
「文字は覚えたぞ」
 途端にクラークの素っ頓狂な声がケイブを揺らす。機嫌を損ねた蝙蝠達が一斉に抗議の鳴き声を発した。彼らが住む、遥か頭上の闇へと顔を向けてから、クラークは未だに驚愕の取れていない目でブルースを見下ろした。
「だ、だってまだ、僕がそれを渡して3分も」
「十分だろう」
 偽り無くそう答えると、ブルースは机を挟んで向かいにある椅子へと手を向けた。え、とか、ああ、とか言う不明瞭な声を出しながら、クラークがそこへと腰掛ける。机の上に置かれた1枚の文字表は、今ではすっかり所在無げに見えた。
「…えっと、君の事だからフィードバックは不要だね」
「ならば今日は何を?」
 ブルースの問い掛けと共に、一際激しく蝙蝠達が鳴いた。声に背を押されたようにクラークが急いで鞄を開く。そこから半ば以上クリアファイルを取り出しながら、しかしクラークは動きを止めた。
 ファイルとブルースへ等分に視線をやってから、彼は溜息を吐きつつ、再びファイルを鞄に仕舞いこんだ。
――何をするつもりだったんだ?
 喉まで出て来た質問をブルースは飲む。長年の戦いで培った第六感が、聞いてはいけないと警戒信号を発したからだ。そしてちらりと見えたファイルの中の紙に、クリプトン文字で「愛して」と綴られていたからだ。
「じゃあ今日は……そうだな、発音練習をしてみようか。これを見ながら」
 机の上に出したままだった文字表を、クラークはブルースに押しやった。濃い丁寧な筆跡で、表の上にはアルファベットが、下にはクリプトン文字が書かれている。
「分かった」
「まず僕が1度、全て続けて読み上げるよ。それから一語一語発音していこう」
 言うが早くクラークは発音を始めた。
 指で文字を示してくれなければ、ブルースにはどれがどれだか分からなかっただろう。一語がかなり長い上に、ヨーロッパ語圏はおろか、今までブルースが聞いた事のあるどの言語とも異なる発音だった。
 間違いない、前途多難である。
 だが困難が大きければ大きいほど、立ち向かい甲斐があると言うものだ。ブルースは心中でそう自分に言い聞かせた。
「今度は僕の後に発音してみてくれ。それじゃあ――」
「……」
 それでも最初に劣等生気分を味わうのは否めなかった。
 何とか口にしてみたが、聞いたものと随分と違う。クラークの懇切丁寧な指導に合わせても上手くいかなかった。発声の感覚からして微妙に異なっているのかもしれない。まるで蟇蛙のようだと思いながらも、ブルースは諦めず、クラークの発音に合わせて繰り返した。
「…ブルース、もうここまで出来れば次の語に移っても」
「嫌だ」
 だから5分経った所でクラークがそう言っても、頑として撥ね付けた。
「何かがおかしい。納得がいくまで次に移るつもりは無いぞ」
「あの、先生は僕じゃあ」
「生徒の意見を聞かないと言うのか?嘆かわしいな。強硬派の教師が持て囃される時代はもう終わったぞ」
「…君もそう言えるような先生じゃ無いと思うんだけどな。ロビンを見ていると」
「クラーク」
 ブルースは殊更低い声を出しながら、ぎろりとクラークを睨み上げた。続けて何か言おうとしていたクラークが、う、と声を呑む。いかにも仕方無さそうに眉を寄せて、しかし彼は発音しようとしなかった。
「ええと、ブルース」
「何だ」
「多分君の引っ掛かる原因は、舌の動きじゃないかい?」
 こことここの間の、と言ってクラークは再び複雑な音を発した。耳朶の奥でそれを繰り返し検討してから、ブルースはこくりと頷いた。
「…それだな問題は。Rの発音とは少し似ているようだが」
「いや、違うよ。何というかこう、舌を上の方に押し当てながら唇を――」
「こうか?」
「ううん、だからこうしてこうして」
「……お前の口の中をどう覗けと?」
 思わずそう言ったブルースに、クラークの内側で何かが弾けてしまったらしい。まずいと思った時には、既にブルースは腕を捕まれていた。
「ああもう良いよ!直に教えるから!!」
 珍しく声を荒げてクラークが言った。同時に強く腕を引かれる。何を、と顔を顰め掛けた寸前、ブルースの唇に柔らかい物が当たった。
 舌だ、とブルースが気付いたのとほぼ同時に、口内へとそれは侵入を遂げた。ブルースの舌を器用に持ち上げ、口蓋に何度か押し付けてから、舌はするすると口の外へと出て行く。
 クラークが顔を離してもなお、唾液の糸は2人の舌を結び付けていた。
「……!」
「分かったかい?じゃあもう1度発音を」
「するか!」
 あくまで真面目な顔で言うクラークに、今度弾けたのはブルースの方だった。



 それから2ヶ月ばかり会話レッスンは中断していたのだが、カーラ・ゾー=エルの一件を経て再開された。
 そして、更にそれから4ヵ月後――
『随分と上達したね』
『…最初に比べればな』
 閉じ込められ脱出の算段をしながら、クラークとブルースはクリプトン語で会話をしていた。
『それで、どうやって脱出するかは決まった訳だけど――バットマン』
『何だ?』
 不意にクラークが真剣な眼差しを見せた。一体今までどれ程この目に騙されて来たかと、自嘲しながらもブルースは問い返す以外の術を知らない。
『考えたくは無い事だが、お互い命を落とす可能性も決して低くは無い』
『…そうだな』
『だから、その、あの、何と言うか、えーっと』
『はっきり言え』
 指を擦り合わせながら歯切れ悪く呟くクラークに、ブルースは苛々と先を急かす。指を組み合わせ語を濁す様は、先だっての姿と余りに落差が激しい。思わず額に手を当てたくなった。
『言ってくれないかな?クリプトン語で。例のほら、君が僕に教えてくれって言った時の』
 十中八九、「“愛している”とか“大好きだ”とか」の事だろう。互いの記憶力の良さにうんざりしながら、ブルースは言った。
『語学力の果てしない無駄遣いだな』
『……駄目か』
 たちまちクラークが項垂れる。当たり前だ、と言い足そうとして、ブルースは唇を開いた。
 しかし考えてみれば、クラークは無償でこの喧しい自分の家庭教師を勤めた訳である。ブルースは唇を閉じ、横目でそうっとクラークを見やった。心なしか前髪のカールにも力が無い。
――こんな状態では逃げ切れるかどうか。
 そもそもこの檻を壊す事さえ覚束無いだろう。ブルースはそう考えながら、覚悟を決めた。
『……スーパーマン』
『え?』
『――』



「……ホーネット、奴ら何をしているんだ?」
「……スーパーマンがバットマンに抱き付いているように見えるけど、ヴァイキング?」
「あ」
「投げられた」

その後の直接的発音指導は、蝙蝠が必死になったので行われませんでした。
代わりに宿題として、クリプトンの愛についての詩を読んで来なさいとか。

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