STRETCH

 指の先は悪戯に虚空を掴むばかりだった。
 力を込めて伸ばされた手が、仕舞いには小刻みに震え始める。彼にとって目指すものは地平の彼方よりも遠い場所にあるのだ。空を飛んでも辿り着けない場所に。
 ブルースはそっと、床へ視線を落とした。
 そして力一杯、目の前の背中を押した。
「い、痛い痛い痛い!」
 喉の潰れるような悲鳴が上がった。背中から手を離せばクラークが肩越しに恨みがましい目を向けて来る。弾みに伸ばしていた足を縮めたのだろう。彼のタイツと床に敷かれた体操用マットが、擦れて小さな音を鳴らした。
「と、突然力を入れないでくれ……」
「…悪かった」
 か細く呟くクラークに、ブルースは少々の間を空けながらも率直に謝った。夏空色の瞳が大きく開かれる。視界の片隅でその様子を確認しながら、ブルースは彼の背後に腰を下ろした。
――空飛ぶ魚でも目撃したような顔だな。
 そう言ってやるのも良いが、これ以上落ち込ませるのも気の毒だ。殊勝に口を噤んでブルースはウオッチタワーの訓練室を見渡す。ジムでも開けそうな大きさだが、しかしそれに反してマシンの類は少ない。ただ、使用者がブルースに限られている現状では、十分過ぎるとも言えただろう。
 むしろここに並べられているのは、中世もしくは紀元前から存在するような古い武器が多い。分厚い両刃剣はワンダーウーマンに、凶悪な刺の付いた棍棒はホークガールに、それぞれ大好評を博している。
 尤も今クラークが使っているのは、それらの武器よりももっと原始的な、即ち自分の体とマットだけであったが。
「昔から柔軟だけは苦手だったんだよ」
「“だけ”?」
「あ、いや、体育は成績こそ悪くするようにしていたけど、好きだったからね。…でもこれだけは」
 どうしようもなくて、とクラークは溜息を零してからブルースの背中にもたれ掛かってきた。空を運ばれる時などで、何時の間にか彼の体温は身に馴染んでいる。その慣れた温度よりも少しばかり今日は熱い気がした。
 彼に寄るのではなく、寄られている、と言う事もあるのだろうか。そう思いながらブルースは肩を軽く上げる。決して不快ではないが、誰かと密着した体勢は落ち着かない。この格好でいる時は余計にだ。例え相手が自分の正体を知り、信頼している者であろうとも。
「重たいぞ」
「ああごめん」
 クラークの答えと共に背中の重みがふっと薄れる。だが体重を掛けぬように、僅かに身を浮かせた程度らしく、感触はなおもケープ越しに伝わって来た。どうもクラークには離れる気が無いらしい。抗議すべくブルースは振り向こうとしたが、それを留めるようにクラークが声を被せた。
「君は凄いよ。あんなに柔らかに動くなんて僕には無理だ」
「…多少の素養は関わってくるが、要は訓練次第だ」
 やや俯き加減になったクラークの頭を見つめながら、ブルースは当初の予定と大幅に異なるものを口に上らせた。
「それに万が一の為、努力すると言ったのはお前だぞ?」
 青いタイツに包まれた肩へブルースは手を置いた。鋼鉄と謳われるほどに硬い筋肉が、ぴくりと手の内で一瞬弾む。
 彼に柔軟性やそれと関わる受け身、防御の技術が必要になる相手はそう多くないが、しかしいない訳ではないのだ。これから出て来る可能性とてある。そんな折に向けて多少なりとも武術の特訓をしたい、と言い始めたのは、他ならぬクラークだ。
 空色の生地に微かな皺が寄る。ブルースは自分が手に力を込めていた事に気付き、そっと引いた。だが代わってクラークの顔がこちらを向く。やや眉尻を下げながらも彼は小さく、そうだね、と頷いた。
「頑張るよ。…ええと、じゃあ何だったっけ」
 戸惑うように宙へと視線をさ迷わせる様は、日頃と殆ど変わりない。気を取り直したらしい、とこちらも眉を開きつつ、ブルースは先程のストレッチの名を答えた。
「長座体前屈、だ」
「うん、それからもう1度やるよ」
 よいしょ、とクラークが背中を曲げる。ブルースも立ち上がり彼の前へと回り込んだ。足首の開き方を指導しよう、と手を伸ばした所で、ふとある事に気付く。
「クラーク」
「何だい?」
「…考えてみれば、私よりもワンダーウーマンに頼んだ方が良いのではないか?」
「え」
 中途半端に手を伸ばした格好で、クラークがこちらを見上げた。顎先を指で挟みながらブルースは首を捻る。
「指導ならば出来るが、問題なのは先程のような補助を行う時だ。いくら私が全力で押しても、その負荷でお前の体が曲がるだろうか?先程のあれはお前が大袈裟だったとしても、きちんと行うなら彼女くらいの力が無ければ……」
「良いんだよ君で!」
 クラークがらしくない早口で否定を投げた。左右に振られる手へ合わせるように、額に掛かる前髪もふるふると揺れる。ブルースはつい吹き出しそうになったが唇を結んで堪えた。機嫌を悪くさせたとでも取ったのか、クラークがまた言葉を覆い被せる。
「君が、良いんだ」
 今度はひたと、夏空色の瞳を向けながらの言葉だった。まるで説得でもしているかのような真剣さに、ブルースの心中に訝しさが広がる。
「だが……」
 ワンダーウーマンも体は柔らかいし、鍛錬の類に慣れてもいる。そう言おうとしたブルースを遮って訓練室のドアが開き、瞬く内に緋色の閃光が軌跡を描いた。
「お疲れ!調子はどうだい?スーパーマン」
「フラッシュ」
 ブルースは壁に掛かった時計を見上げた。そろそろゴッサムでは蝙蝠の飛び始める時間だ。早いな、とブルースが呟く前に、フラッシュが気軽に肩へと腕を乗せて来る。
「しっかし、力もスーパーでスピードも……まあこれはオレに負けるかもしれないけど結構スーパーなのに、その上まだトレーニングだなんて気合入ってるよな!しかもバッツが師匠なら凄いスパルタなんじゃない?なあバッツ」
「その呼び方は止めろ」
 二歩ほど下がる事でフラッシュの腕をするりと外し、ブルースはドアへと踵を返した。あれ、と均衡を崩したらしいフラッシュが呟いた。その横でクラークの立ち上がる気配がした。
「ブ……バットマン、どこへ?」
「時間だ。ゴッサムに戻る」
 冷たい、と人から評される声音でブルースは答えた。ドアから出る寸前に振り返れば、中腰のクラークが、散歩は終わりと告げられた犬のような瞳をしていた。
「…続きは来週の火曜だ。自主トレーニングはしっかり行え。継続が肝心だからな」
 綻びかけた唇を繕っての言葉であったが、多少なりとも成功し、クラークに活を入れたらしい。丸められていた背中がぴんと伸びる。
「分かったよ。それまでに君が驚くほど上達してみせる」
「止せ。急に動かすと体に悪い。…お前でもな」
 最後にそう付け足してブルースは廊下へと踏み出した。



 ドアが完全に閉まり切ってから、クラークはマットの上に再び座った。足を伸ばし、小さく気合を入れてから上体を爪先へと傾ける。教わった通りにゆっくりと進めていったが、それでも矢張り指先と足の距離は遠かった。
「…誰かと誰かみたいだな」
「え?」
 周囲を走り回り応援していたフラッシュが、クラークのすぐ横で首を傾げる。彼が鋭い聴覚を持っていない事に感謝しながら、クラークは苦笑して何でもない、とだけ答えた。

JLの中でも超人・フラッシュ・鷹嬢は何となく体が硬そうです。
蝙蝠は修行中ヨガもやってたそう(ビギンズ小説)ですから、さぞ柔らかいかと。
皆のストレッチ指導で驚いたフラッシュに、やわらかバッツと呼ばれて貰いたい。

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