モービル1、2と表紙に書かれたスケッチブックを、次から次へと取り出してゆく。ちらりと見えた中身は、あの戦車のような巨躯ではない。デフォルメした蝙蝠の顔を、先端に取り付けた車だった。
「…ボスってこんなのに乗ってたんだ」
さながら恐怖を求めた余り、滑稽になるホラー映画のようだ。ブルースといい、今は亡きアルフレッドといい、頭脳と技術力には長けているのに、どうしてデザインの才に欠けるのか。いや才能はあるのだろう。前衛的な方面に。
「キャリー」
「はい!」
背後からの呼び声に、思い巡らせていたキャリーは飛び上がった。慌てて振り向くと案の定ブルースが立っている。
「そこの整理は後回しで良い。もう休め」
「え、でも」
「怪我の完治の方が先だ」
自らも頬や額に大きな絆創膏を張っていると言うのに、ブルースはぶっきらぼうにそう言う。思わずキャリーは苦笑した。
「ボスこそ早く休んで下さい。帰るなり発作起こして、皆を慌てさせたのは誰でしたっけ?」
「薬は飲んだ」
「でも不規則な生活は体に毒ですよ。アタシもこれ出したら休みますから」
本が大量に詰まった箱をキャリーは振り返る。アルフレッドが纏めたと言う、古いケイブでの記録や資料だ。万が一の事を考え、ウェイン家の敷地の一角に埋められていたそれは、今日の午後掘り返されたばかりだった。
「…大分あるぞ。手伝おう」
そう言って中に入って来たブルースに、早く休めと振り返った所――キャリーの右手が本の一山に当たった。
「あ」
ばたばたばたばたん、と音を立てて本の山が崩れる。ほぼ同時に細かな埃が宙に舞い、古びた紙やインクの匂いが漂う。
「うっわ、ごめんなさい!」
「怪我は無いな?」
「はい」
「なら良い。気にするな」
慌てて拾っていくキャリーの横から、ブルースの皺を刻んだ手が伸びる。幸い角が削れたり、中のページが折れたりはしていない。安心しながら本を片付けるキャリーの目に、ふと、こちらに向けて開かれた本が映った。
「あ、それは」
「え?」
ブルースの制止より一歩早く、キャリーはそれを手に取った。随分と変わった手触りだと感じた所で、それがどうやらアルバムらしい事に気が付く。しかしその予想も外れた。見れば収まっているのは写真ではなく、新聞記事だ。一面記事らしいその見出しには、キャリーにも見覚えがあった。
「これってデイリー・プラネットですか?2年前に廃刊になった?」
「…ああ。それよりも」
「やっぱり!今じゃ新聞なんて珍しいですよね。みんなネットになっちゃって。…ああ、懐かしい色!」
日付は20年近く昔のものだが、保存状態が良かったのか、日焼けや変色した様子はない。思わずキャリーはページを次々に捲ってしまった。ブルースは何か言いたげだったが、小さな溜息を吐いてから、本の整理に向かっていく。
「あれ?」
「そろそろ良いだろう。こちらを」
「ボス、これって全部社会面なんですか?」
スクラップブックから顔を上げて、キャリーはブルースの背中に首を傾げてみせた。
「――そうなのか?なら他に経済面を集めた物も出て来るだろうな」
答えるまでに僅かな呼吸と間があった。それに反して口ぶりは流暢だ。キャリーの脳裏で、「妙だ、怪しい」と言う形をした電光が踊る。
「…そんなに細かく分けているんですね」
「アルフレッドが手伝ってくれたからな」
「へえ」
そうなんですか、とキャリーが言うより早く、高らかな声と足音が戸口で響き渡った。
「ブルース!早く休まないと駄目じゃないか!」
「あ、ケントさんこんばんは」
「やあキャリー。…すまないが、そちらは僕が手伝うよ。彼を寝かせてやってくれ」
「いい年した男を子どものように言うな」
剣呑な声でブルースが言った。クラークを振り返る瞳には、ちらちらと青い炎が揺れている。
「さっき会った時にはもう休むと言っただろう。約束を破るのは“いい年した男”らしくないぞ」
「誰がお前に約束した?気分が変わる位誰にだってある」
「体調管理も大人の仕事だ」
「お前の喧しい大声を聞く方が体に悪い」
ブルースはそう言ってさっさと本の山に向き直ってしまった。眉を寄せたクラークが大股で中に入って来る。こうなれば意地と意地のぶつかり合いだ。
――アタシが1番大人だったりして。
心中で密かに呟いてから、キャリーは取り成しの口実を探し出した。ラーラの事か整備の事か、と考えている内に、スクラップブックの重みがある事を甦らせる。
「あの、ケントさんって確か、デイリー・プラネットの記者だったんですよね?」
「キャリー、奴に構うんじゃ」
「この記事に見覚えありますか?」
ひょいとスクラップブックを持ち上げた瞬間、クラークの顔色が変わった。少なくともキャリーにはそう見えた。そして彼女の視界の端では、ブルースもまた顔色と言うか、血相を変えていた。
「これは……」
「デイリー・プラネットですよ。今日掘り出した保管ボックスの中から出て来たんです」
「キャリー」
何時の間にか立ち上がったブルースが、戸口の横で2人を見下ろしていた。半身は既にドアの外の闇に飲まれ、灰を帯びた青い瞳だけが鮮やかに輝いている。
「後は頼んだ。お前も早く休め」
「…え?あ、はい。お休みなさい」
語尾が宙に溶けるよりも早く、ブルースの姿が夜に消える。あ、と言う声にキャリーが横を向くと、唇を開いたクラークが、戸口に向けて僅かながら上体を差し伸べていた。
「ケントさん?」
どうかしたんですか、と問う前に、クラークが口を閉じて頭を振った。
「い、いや、何でもないよ。それよりも、見せてくれるかい?」
「ええどうぞ」
何か引っ掛かるものを感じながらも、キャリーはクラークにスクラップブックを渡す。
夏空の瞳はそれからしばらく、ページに釘付けになっていた。だが何事かとキャリーが尋ねようとした直前、その視線は本から離れていく。
「君ももう寝るべきだな」
妙に静謐な声音へ、否を唱える事などキャリーには出来なかった。
重たい扉の向こうから、こつこつと遠慮がちなノックが聞こえる。
予想していた訪問だった。さてどうすべきかと眉根を寄せながらも、気付けば体は扉の近くまで進んでいる。向こう側で耳を澄ませている相手にも、近寄る気配と足音は届いている事だろう。
眠ったふりをする、と言う選択肢に別れを告げて、ブルースは重たい扉を内側に引いた。
「――やあ」
「どうした?」
揶揄も皮肉も含まない問いかけに、予想が外れたのだろうか。クラークの瞳は戸惑うように揺れ動いた。
「遅くにすまない。君もその、分かっていると思っていたが……これを」
濁した語尾が示すのは、大きな右手に捕まれたスクラップブックだ。
「それが何か?」
「中を見せて貰ったよ」
言葉と共に腹が決まったらしく、夏空を宿した瞳がぴたりと落ち着く。開き直ったなと苦笑を噛み殺すブルースに、クラークはスクラップブックを向けた。
「……驚いた」
「だろうな」
記事の内容がどんな話であれ、最後は同じイニシャルで終わっている筈だ。「CK」と。
「だけど少し、嬉しかった」
クラークが薄い唇を綻ばせる。苦渋と後悔と、そして言葉通りの感情を等分に滲ませた笑みだった。眉を寄せたブルースは、差し出されたままのスクラップブックに目を落とす。
「良い記事が多かったからだ」
「そんな。…君の事だから、別件の記事ばかり集めていると思っていたよ」
「灰になった。データしか残っていない」
「そうか。僕のものも、そうなんだ」
君専用の、と言ってクラークは憂い気に俯いた。ブレイニアックに要塞を襲撃された際に燃やされたのだろう。だが気に病むなと励ますのも妙だ。数十年前に嫌がったのは、他ならぬ自分ではないか。
「でもああ言うのは形じゃなくて、残したいと思う心が大事だからね」
「残したいなどと思うのか」
明るく顔を上げたクラークに、ブルースはつい問うた。この怒涛のような3年間を越えてなお、彼がそんな言葉を口にするなど予想だにしていなかったのだ。しかしクラークは驚いたように目を瞬かせた後、そっと微笑む。
「君は?」
「さあな。忘れたいと思った所で」
ようやくブルースはスクラップブックに両手を伸ばした。
「……お前が、嫌でも思い出すような事をやってくれるからな」
手の内に重みが宿る。3年前に何を残すべきかと考えた際、手にしたのは鋼鉄の男についての記事ではなく、彼がもう1つの姿で書いた記事だった。
「それは僕の台詞だよ」
かつてその姿を捨てた男が、呆れたと言わんばかりに溜息を吐く。
「ここ3年間に君が仕出かした事だけで、僕の記憶はパンクしそうだ」
「分かっていたが随分と小さな脳味噌の持ち主だな」
「ああ、君が昔から酷い皮肉屋だった事は覚えているよ」
それと、とクラークは片目を瞑った。
「陰険で意地っ張りな癖に、ちゃんと僕を気に掛けている所とかね」
ブルースは何も言わなかった。スクラップブックをクラークの額に当てられるよう、軽く構えただけだった。慌ててクラークが一歩下がり、手を左右に振る。
「分かった、分かったから。もう退散する。休んでくれ」
「良し」
短く呟き構えを解くと、ブルースは小さく笑った。クラークもまた、眼鏡の奥の瞳を和ませる。しばしの間、2つの笑い声が闇夜に響いた。
忘れたくない思い出は、きっとこの笑いの中にもあるのだろう。ブルースはそっと、未だにクラークの温もりを残す、スクラップブックの表紙を撫でた。