ミスター・ヒーティング

 幾千もの夜を馳せて来た四肢も、今は力無く投げ出されている。それが受け止めるシーツへの安心故か、それとも寝床を共にする男への信頼故かは、流石に分からない。
 眠りに捕らえられる機会を逃したクラークは、後者であるようにと願いながら、間近なブルースの寝姿に視線を注ぎ続けた。
 常日頃はきつく寄せられている眉や、固く結ばれている唇は、今ばかりは柔らかな線を描いている。ちらりと見える口内の赤さは先刻までの行為を思い出させた。しかしその記憶を反芻させる時も与えず、視界に唇脇の傷が飛び込む。クラークは知らず知らずの内に眉を寄せた。
 敵に殴られた、とブルースは言った。どのヴィランか、或いは小悪党かはクラークにも分からない。ただ唇のすぐ近くに出来た、生々しい蘇芳色の傷が、快晴だった空に雲を呼ぶ。
 流石に口付けは控え目にしたが、最後まで自分を抑えられた自信は余り無い。どうだったろうと今度こそ記憶を引っ掻き回し、それからクラークは頬を真っ赤に染めた。
「奇妙な男だな」
「え」
 気付けば瞼が開かれて、灰がかった瑠璃紺の瞳がこちらを覗いている。思わず息を止めたクラークに、ブルースは微かだが確かな微笑を向けた。
「にやけた後に怒ったような顔をして、しかも赤くなるなど」
「…寝た振りだなんて卑怯だぞ」
「お前の気配に起こされたんだ」
 猫科の獣を思わせる欠伸をひとつしてから、ブルースは悠々とシーツの中に潜り込む。気恥ずかしさに熱くなった耳朶を、クラークは軽く引っ張った。それからブルースを追うように口元までシーツの中に入る。
「怪我は痛まないかい?」
「平気だ」
「消毒したり、絆創膏を張ったりしなくても?」
「いい。…それに、この部屋に救急箱があるのか?」
 痛い所を突かれクラークは思わず黙り込んだ。ある事はあるのだ。メトロポリスに来た時のまま、開けていない薬箱が。現在も使えるのかはクラークにも分からない。薬の瓶を開けても異臭がしない、と言える保障は無かった。
 そんなクラークの横で、シーツに覆われたブルースの肩が震える。
「無いんだな」
「あるよ」
「嘘を吐くな」
「ある。…分かった、持って来る」
「止せ」
 起き上がり掛けたクラークの腕を、ぽんぽんと軽くブルースが叩いた。思わず眉を寄せて見下ろす。
「だって君が嘘吐きだなんて」
「お前に行って欲しくないんだ、クラーク」
 ひたと据えられた視線にクラークは心臓が脈打つのを感じた。スーパーヒアリングを持たぬブルースにも届きそうなほど、大きく激しく。
 薄く開かれた唇は、更なる睦言を紡ぎ出しそうだ。クラークを止めようとしてか、腕に乗った手の冷ややかさが逆に熱さを掻き立てる。誘うような深い瞳にクラークはもう1度シーツの中に入り込んだ。
「う、うん、君がそう言うなら行かないよ」
 絶対に、と付け足しながら、クラークはそっと手をブルースの背中に回していく。だが指先が彼の背に届く寸前、ブルースは華麗に億万長者の笑みを浮かべた。
「なら良かった。お休み」
「え」
 言い切ってから即座にブルースは瞼を下ろし、枕に顔を埋めてしまった。行き場を無くした手がシーツの虚空をさ迷い始める。
「え、え、ブルース?」
「お前が行ってしまったら冷えるからな。流石にベッドの中は温かい方が良い」
 微笑の名残を留める唇がそう語った。いつもより柔らかなブルースの表情も、今ばかりは恨めしい。つまり自分は暖房代わりと言う事なのだから。
――そうはさせない。
 暖房なら暖房らしく至近距離で、つまり抱擁して温めるという手もあるではないか。クラークはブルースを抱き寄せるべく腕に力を込め、そして耳に届いた音に動きを止めた。
 細いが規則正しい寝息。更にそれに合わせて、ブルースの肩が上下している。伏せられた睫毛も震えていた。どうやら完全に寝入ってしまったらしい。
「……」
 躊躇ったのはほんの一瞬。クラークは先程の試みよりもずっと優しく、ブルースの背中に腕を回した。それから声を落として、夢の世界に飛んでしまった彼に囁く。
「今日だけだからね」
 心優しいミスター・ヒーティングは、そうしてそっとブルースの傷に唇を落とすのだった。

でも冬場はいつも暖房マン(蝙蝠専用)になる事うけあい。

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