ソファに座るブルースに見えないよう、自分の体で隠しながら冷蔵庫を開ける。調味料と飲み物を除けば極めて閑散とした中身は、なるべく彼に見せたくなかった。ウェイン邸の冷蔵庫はちらりと1度見た事があるだけだが、外側も中身も業務用と紛う程だった。
出来た隙間から、昨日の夕食にしたサラダの残りが見える。明日の朝まで持つだろうかと、鋼鉄の胃袋に不釣合いな心配をしつつ、クラークは牛乳のパックを取り出した。すぐ閉めようとドアを押すが、閉まらない。
「あれ?」
おかしいな、と身を引いて確認するとすぐ分かった。湯上りのまま、首から掛けていたタオルが挟まったらしい。取ろうと伸ばした指先が、同じく横から伸びて来た指先とぶつかった。
思わず引っ込めたクラークの指を意にも介さず、冷蔵庫の空気のようにひんやりとした指が、青いタオルを救出する。
「演技をしていない時もドジなんだな、“スモールビル”?」
「…はは、良くやるんだよ」
何時の間に、と口から出そうだった言葉は無理に呑み込んだ。ブルースが言った呼び名を支持するように眼鏡を押し上げる。強く握ってしまったが、牛乳パックも無事だった。もう少し中身が多かったら、今頃床は牛乳だらけになっていただろうが。
ブルースが気配を殺す事に長けている事は誰よりも――否、ロビンとは同程度に知っている筈なのだが、それでも心臓が跳ね上がるのを止められない。普段は一定の距離を置いているブルースが、自ら間近に来ると言う事への緊張もあるのだろう。そちらには慣れていないのだと、言い聞かせながらクラークは牛乳のパックを開いた。そのまま口元へ持って行き、一気に流し込む。
「……あ」
冷えた中身が胃に到達する頃、ようやくクラークはブルースが目を見開いている事に気付いた。
――しまった。
一人暮らしで身に付いた癖を、ついやってしまった。汚い俗語も罵詈雑言も嗜むとは言え、根が行儀の良いブルースには驚きだったかもしれない。灰がかった瑠璃紺の瞳と牛乳パックを、クラークは思わず交互に見やった。
「…コップは使わないのか?」
「あ、あの、洗うのが面倒な時に、ついやっちゃって……」
下がってもいない眼鏡を押し上げながら、クラークは耳朶が熱くなるのを感じていた。事実、言葉通りにシンクでは洗っていないコップが溜まっている。だが、あれ程両親から行儀作法と掃除に気を付けろと言われていたのに。
それでもブルースはそうか、と言う風に1度頷いてから、クラークに手を向ける。
「す、すぐに自分で洗うよ」
「紙パックまで洗いそうだな。それよりも」
「え?」
「私にも一口くれ」
彼の言を理解するまでにたっぷり5秒掛かった。
「それじゃあコップを洗って」
「いや」
戸棚に踵を返し掛けたクラークの手に、するりとブルースの指が伸びる。長い先細りの指は意外なほどの強さで牛乳を奪い取った。
「このままで良い」
そう言うとブルースは、先程のクラークと同様、直接口にパックを持って行き――牛乳を流し込んだ。
軽く反らされた喉がごくり、と何度か続けて蠢動する。その部分だけまるで、ブルースとは違う生き物のようで、クラークは思わず視線を注いでしまう。
時間ならばほんの5秒ほどだったろうが、ブルースが唇を離して言葉を発するまでの間は、クラークにはマグマに30分浸かるよりも長い時間に感じられた。
「…この飲み方もいけるな」
同意を求めるように首を傾けながらブルースが言った。差し出された牛乳パックを、クラークは力無く受け取る。ふらふらな動作が可笑しかったのか、白っぽく濡れた唇が今度こそ皮肉気な笑みを刻む。紅色をした舌先が僅かに突き出され、牛乳の名残を舐め取っていった。
自邸にいる彼ならば絶対しないその動作に、クラークの脳裏が一瞬で燃え上がった。
弾丸よりも何とやらのスピードで眼鏡を外し牛乳を置き、ブルースの腰を引き寄せる。互いの睫が互いの肌に触れる寸前にスピードを落とすと、クラークはまだ牛乳の残る唇で、唾液で濡れ光る唇を塞ごうとした。
唇は確かにブルースに当たった。正しくは、彼の掌に。
「待て。口を洗う」
「構わない」
掌に唇を当てたままクラークは吐き捨てた。挑発しておいて逃げるとは有罪も良い所だ。手を退けようとしたがしかし、跳ね除けられる。
「牛乳臭いキスは勘弁願いたいのだが、スモールビル?」
「洗ったら洗ったで青臭いとか言うんだろう」
「まあな。だが――」
英知と悪巧みに彩られた微笑が閃く。
「牛乳臭いキスと青臭いキスとでは、後者の方が興奮する」
笑みと言葉に気を取られたクラークの腕から、翼が生えているような軽やかさでブルースが離れる。
「早くキスしたいなら、溜まっているグラスを洗う事だ」
そう言ってシンクのコップを取り上げるブルースに、クラークは再び弾丸を超えるスピードで食器洗いに取り掛かった。
ミルク味のキスは掌に溶けた
ちょっと強気で頑張る筈が、いつの間にやらお預け超人。
ケントさんはマメなようでちょっぴりズボラだと可愛い。
「スーパースピードでやればすぐだー」とか思っていたら溜まってる、とか。
そしてそんな少しごたついた部屋を、蝙蝠は物珍しく眺めると思います。
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