「伝説の遅刻魔のお出ましか」
さっとカーテンを開きそう呟くと、入って来たクラークは唇を尖らせた。その背後に広がるウェイン邸の闇から、春の温かさと冷たい風が彼より先に飛び出して来る。
「メトロポリスに行ったからって、そんな話を仕入れて来る必要は無いじゃないか」
「株の動きを見るより、社員の様子を見る方が分かる――事もある」
ブルースは付け足してから窓を閉めた。微かに揺れているケープの裾が、所在無げな彼に似ているようで笑いが込み上げる。
そんな様子にからかわれていると思ったのだろう。クラークはカーテンが閉まるのと同時にブルースの腰を引き寄せた。
「そう拗ねるな」
「拗ねていないよ。…でも君は」
「私は?」
首筋に掛かる息を意識しながら、ブルースは詰まった言葉の先を促す。するとクラークの青い瞳は横へと動いていった。机の上に乗せたデイリープラネットを見ているのだ、と視線を追わずにブルースは悟る。
一面の見出しを読み終わる時間と、ほぼ同じだけ黙った後、クラークは言葉を吐き出した。
「僕が何故遅れるのか知っている癖に」
ペリーにたっぷり絞られたと言う男の声は、小さい割に耳へ強く残った。ブルースはつと顔の角度を変え、眉間に小山を作っているクラークと正面から見詰め合う。
「悪かった」
気負いも無くそう応じると、たちまち大きな目が見開かれる。
自分はそんなに謝らない男だと思われているのかと、些か心外に感じながらも、ブルースは彼との間にある僅か数センチほどの距離を一気に詰めた。ついでにクラークの髪に付いていた落ち葉を取りがてら、彼の頭を引き寄せる。
その夜、部屋の明かりが消える時間は、いつもより随分と早かった。
どす、と胸の上に何かが乗った。
幸いながら呻き声を発するほど重たくは無い。それでもシーツに包まって、眠りの世界でたゆたう心地良さを奪うには十分だ。眉が寄るのは当然の事だった。
だが胸の上のものを除けるには、シーツの中から腕を出さねばならない。そうするには余りに惜しかった。首から下はただ今、現実とは思えぬ蕩けるような温かさに満ちている。これを手放す事を考えれば、胸苦しさを我慢する方がまだましだ。
上から悪党が降って来た時に比べれば大した辛さでも無し――とブルースが考えた所で、更に腿の辺りに重みが加わった。
――こいつ。
とうとうブルースは、それまで伏せていた瞼をこじ開ける。ぼんやりと霞がかったような薄暗い部屋の中で、真っ先に視界へと飛び込んだのは、胸の上に乗った太い腕だった。
逞しい上腕から美しい滑車のような肘、そして筋張った前腕へと続くフォルムは流れるようで、その中に秘められた力を措いても魅力的だ。この屋敷にあるどの石膏像の腕よりも素晴らしい。
しかし眠りを邪魔されたブルースにとっては、どんな腕もその辺の棒切れと変わりがなかった。更に腕の向こう側、自分の腿に置かれているのは、恐らくどう考えても脚だろう。この時点で、腕も脚もブルースには棒切れ以下となる。
ついでに左側から流れて来るのが健康そのものの大きな寝息とあらば、ブルースのこめかみが引き攣るのも当然と言えた。
――良い度胸だ。
錆付いた人形のような硬い動きで、ブルースは顔を寝息の流れる方へと向ける。
クラークの寝顔は眉も頬も唇も、パーツ全てが「無邪気」と語っている。横のブルースが寝起き独特の不機嫌さを放出し、御伽噺の魔王そこのけな顔をしているのとは大違いだった。シーツから半分ばかりはみ出た体が、夏休みの少年じみた雰囲気を醸し出している。
――だが今は春だぞ。
風邪を引かない男は無頓着で困る、とブルースは思いながら、つと視線をベッドサイドに向けた。クラークの背後にある目覚まし時計の針は、彼の為にセットした時間へ、もうすぐ到着する見込みだった。
そうなれば起こすのに遠慮は要らない。思い切り腕を抓ってやろうか。それとも、強烈な関節技でも仕掛けてやろうか。考えはすぐ後者に決まった。
しかし手足を動かすにもシーツに妨げられ、なかなか思う方向へと動かない。クラークを起こさぬよう注意しながら、ブルースは無闇にもぞもぞと蠢くばかりだ。
そうして手間取る内に、静かに確かな行進をしていた時計の針が終着点を指す。
古臭い電話のベルを思わせる音が鳴り響き、その高い音量にブルースは不覚にもびくりと震えた。残念さを覚えたのはベルがもう一鳴りし、クラークがそちらへと寝返りを打った頃である。
不意に体は楽になったが、不満は心に残ったままだ。クラークが起きたら嫌味の一つでも言ってやろうと、その候補を頭の内に並べ出した直後――例の見事な腕が、高々と掲げられた。
「おい、クラー……」
言葉を遮るように螺子が1本、薄暗い部屋の中に舞った。
ブルースに見えたのはそれだけである。
しかしながら金属が擦れ合って潰れる音と、それと対照的に聞こえなくなった目覚まし音が、先程の光景と合間ってブルースにある事を想像させる。そしてもうクラークを起こす事など顧みず上体を起こした彼の前には、予想通りとしか言いようのないものがあった。
クラークは相変わらず眠っていた。長い腕をベッドサイドに伸ばしながら、ぐっすりと。
だが彼の腕の先、手の下に広がる、失敗した目玉焼きのように薄いあれは――もしや。
ブルースはゆっくりと視線を逸らした。
最前の螺子は、丁度膝の辺りに飛んでいた。拾い上げると存外重たい。指先でその冷たさを味わいながら、ブルースは静かに呟く。
「私も知らないお前の遅刻理由が、まだあったようだな」
そうして力一杯投げた螺子はクラークの後頭部に当たり、かん、と軽い音を立てて跳ね返るだけだった。