サルビア揺れる

 乾いた風を物ともせずに、真紅の花房は揺れていた。
 この我慢強さはどこまで保たれるだろうか。椅子に置いたラジオからは、今週中に初雪が降ると天気予報の声を流していた。そうなれば南洋を思わせる紅色との別れは近い。じきに分厚い雲が垂れ込め、ゴッサム一帯が純白に染まる。
 そんな事を考えながら、視線をプール脇のガーデンスペースから部屋の中へ移した。そろそろ迎えが到着しても良い頃だが、チャイムの軽やかな音は一向に聞こえて来ない。屋外での暇潰しにも飽いて来たと言うのに。
 中に入ろうかと身を翻す。だが不意に沸き起こった清冽な風が、伸ばした手からカーテンを奪い去った。
 振り返ればそこには、サルビアよりも太陽に愛された色が広がる。
 夏の空を纏ったヒーローに向けて、ブルースは精一杯にこやかな笑みを浮かべて言った。
「仮装大会にでも行くつもりかな、ケント君?」
「…申し訳ありませんウェインさん、遅れました……」
 人助けの折の、堂々たる姿はどこへやら。首を竦めて項垂れるクラークに、ブルースは長い溜息を吐いた。雪に先駆けて白いそれはあっと言う間に消えるが、しかしそれが示す“呆れた”と言う意思までは消してくれない。
「僕も君も、今頃は会場に着いていた筈なんだがね」
「本当にすみません。その、埋め合わせに」
「鋼鉄の男による送迎はお断りしているんだ」
 腕を広げたクラークに言い放てば、彼はしおしおと再び肩を落とした。冴えた満月が彼のコスチュームも、ブルースのタキシードも、等分に優しく浮かび上がらせる。所在無げに靡く茜色したケープの裾が、泥地に倒れ込んだように汚れている様も。
 折り良く天気予報を終えたラジオが、臨時ニュースを流し始めた。しまったと言う風にクラークが顔を上げる。
 がけ崩れ。埋まった3台の車。スーパーマン。それらの言葉が紡ぎ出されていく。片眉を跳ね上げてブルースは言った。
「特に、誰かを救って遅れたと言い訳しない男にはな」
「ブルース、でも」
「“遅れて迷惑を掛けたのは事実だから”とは言うなよ」
「…君こそ、僕に言い訳の余地も与えてくれない」
 目元に苦笑の影を漂わせながら、クラークが眼前に着地する。こちらへ手が伸ばされるより早く、ブルースは部屋へと続く窓を閉めた。鍵を掛けずとも、83階のスイートルームにやって来る泥棒はまずいまい。ヒーローならば別だろうが。
「無用心じゃないか」
「お前が言うか?困るような代物も置いていない」
 それに、と続けながらブルースはクラークへ距離を詰めた。腰に回される手の温かさは、服越しでも伝わって来る。少しばかり跳ねた鼓動を隠す為にも、ブルースは急いで言葉を覆い被せた。
「帰り道も同じルートを使う予定だからな」
 意味を吟味するようにクラークが少し首を傾げる。やがて徐々に、雪解けのように綻び始めた顔を見るまいとブルースは視線を逸らした。クラークの手に力が入る。
「帰りのお時間はいつですか、ウェインさん?」
「…主催の長ったらしい挨拶を聞いて、知人と一通り話し終えた頃かな」
「じゃあすぐですね」
 眉を寄せたブルースの視界から、ホテルの窓が遠ざかっていく。
「今度は遅れないように心掛けます」
「ああ気を付けてくれたまえ、ケント君」
 仏頂面で返すブルースに、クラークがくくっと喉の奥で笑いを殺す。それに合わせるかのように、サルビアの真紅の花房も小さく揺れ続けていた。

最近ホテルで会う2人がマイブームです。

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