指先をカレンダーに押し当てた。24日。ウオッチタワーのモニター監視担当をした日。
そのまま指を右へと動かしていく。25日。半日はメトロポリスでの会議に出席し、残る半日はゴッサムのパーティに費やした。26日。夜の慈善活動以外に何も無し。27日も同じ。
そして28日の日付で指が止まる。残す所あと半日を切った日付の右にあるのは、薄いインクで示された1日の文字だ。その間を指先がふらふらと揺れ動く。
正しくは、示されていない日の上を。
「閏年は再来年でございましたか?」
静寂をすり抜けて響いた声に指先が揺れた。書かれていない日の上へくっきりと爪痕が残る。一瞬だけ眉が寄ったが、振り返る頃にはいつも通りの表情が出来上がっていた。
「来年だな」
ブルースの答えに、洗濯物の籠を抱えたアルフレッドが深く頷く。
「左様でございましたか。4年に1度となると記憶があやふやになりますな」
「君にしては珍しい」
「ブルース様やリチャードの誕生日であれば、何時いかなる時でも忘れないのですが」
今度こそブルースの眉間には明瞭に皺が刻み込まれる。だが臆する様子など微塵も見せず、アルフレッドは悠々と居間から出て行った。ブルースの脇をすり抜ける折、閏年は来年、と小さく呟きながら。
再びブルースはカレンダーに向き直る。
2月と3月の間には、未だ先程の動揺の証が残っていた。内容を書けぬがしかし、特別な日であると留めているような様に、ブルースの眉間の皺が益々深まっていく。その日と関連している男の名前も、同時にちかちかと瞼の裏で点滅を始めていた。
何とかそれを抑えようと、ブルースはカレンダーを捲った。3月の日付には適度な空白を空けて、つらつらと予定が並べられている。だがブルースの視線は、1日に当てられてすぐ固まった。
13時から慈善団体との懇親会――メトロポリスのセントラルパークホテルで。
「そうそう、明日のメトロポリスでの懇親会でございますが」
戻って来たらしいアルフレッドの声が背中に掛かる。
「夜間の慈善活動を考えれば些か早い時刻である事ですし、いっそ今日からメトロポリスに飛ばれては如何でしょうか?手配ならばすぐに済ませますが」
敗因は、彼の言葉に否と答えられなかった事だ。
タクシーから降りるとブルースは首を回し、ついでに通り掛かった美人にウィンクをひとつ送ってから、眼前に立つビルへと足を向けた。頭上に飾られている星のモニュメントは、今日も快調に回っている筈だ。見上げるまでも無い。
驚き立ち上がった受付へは、驚かせたいからと口止めをして座らせた。1人でVIP専用エレベータに乗り込んでから、際限無く出て行きそうな溜息を堪える。上昇の感覚と共に圧し掛かる後悔を隠すべく、ブルースは軽く目を瞑り、考えていた段取りを復習した。
行き先にいる、黒縁眼鏡の記者の誕生日は今日でも29日でもない。4年に1度訪れる日に誕生日を迎えるのは、地球とは離れた遠い星出身の、青いタイツと赤いケープのヒーローなのだ。だから直球で話を振る訳にはいかない。
いつものようにロイスやペリーと歓談を交わし、ついでと言わんばかりに彼へからかいの言葉を投げる。恐らく若干うろたえた素振りを見せるだろう。その隙を逃さず、何か誕生日と絡めた冗談を言えば良いのだ。
ものの数秒も要さぬ言葉。だがそれだけで、彼は自分が何を言いたいのか知るだろう。分からずとも自分は納得出来る。そう思った瞬間にエレベータが開いた。
慣れてしまった道を辿る。ガラス張りのオフィスはすぐ先だ。唇の端を僅かに緩めて、ブルースはドアを開き声を張り上げた。
「やあ皆、元気で働いている……か、な?」
朗らかに過ぎる声を聞いたのはしかし、両手にも満たぬ数の職員だけだった。メトロポリスの眩い日差しががらんとしたオフィスを照らしている。
「ブルースじゃないか!どうしたんだ急に?」
「ああ、ペリー」
諸手を挙げて近寄って来たペリーに、ブルースは訝しさの抜け切らぬ笑顔で応えた。それにすぐ気付いたらしく、ああ、とペリーは人気の少ない職場を眺めて笑う。
「ついさっき、通りの方に馬鹿でかいロボットが出てな。皆その取材に行っちまったんだ。…ホテルから来たのか?通行規制は?」
「いや、さっぱり分からなかったよ。空港から直行したからかな」
「それは良かった。まあすぐスーパーマンが駆け付けたらしいから、大した事にはならんかったようだが――」
ペリーが指で示したテレビでは、丁度そのニュースが流れていた。深い紫色をした、宇宙飛行士のスーツにも似たロボット。その周囲を飛び回る茜色のケープは、大きさならば羽虫のようにしか見えない。
だが正体を知った者は、2度とそんな例えを口に上らせないだろう。ブルースはテレビから目を逸らした。すぐに片が付くと分かっていたからだ。
「ロイスもそちらに?」
「ああ、ケントに先を越された!って相変わらずのお冠でな」
「目に浮かぶよ。…じゃあ、帰りはそちらに寄って行こう」
「…それで、竜巻が起こったようだから、って行ってしまったの」
そう言ってロイスが肩を竦める。彼女の細い肩や、背後に広がる窪んだ歩道や、その周囲で立ち回っている警官達の背には、揃って夕陽がオレンジ色の絵の具を落としているようだった。
「相変わらずよね」
だが言葉と仕草とは裏腹に、唇は微笑の形を刻んでいる。彼女はそんなヒーローのファンだからだ、と第三者にも分かるような様子に、ブルースもつられて微笑んだ。
「本当に相変わらずのようだね」
「まあ、彼らしいと言えば彼らしいんだけど」
君の事だよ、と付け加えるのは止めておいた。代わりにロイスが握ったままのペンへと目を向ける。
「今日はこれから記事を?」
「ええ。レックス・ルーサーの、セキュリティの甘さも絡めて」
「勇ましいな、頑張ってくれ。…そう言えば、今日はあの眼鏡君と一緒じゃないんだね」
わざとらしく周囲を見回してから首を傾げると、ロイスの柳眉がきゅっと寄った。
「クラークなら、スーパーマンが行ってすぐ別件の取材に出たわ。今日は直帰になりそうですって」
一体どこで情報を仕入れているのかしら。そう言いながらロイスはでんと腰に手を当てた。彼女の機嫌を損ねない事は、流石のスーパーマンにも難しいらしい。ブルースは早々とロイスに手を振り、まだ野次馬の残る道を歩き出した。
しかし竜巻となれば州外だろう。それだけならば帰りはそう遅くなる事もあるまい。が、彼の言動を考えると、何か記事にするネタを探さないとも思えない。
さてどこへ行くかと少し考え込んだが、ブルースはすぐに良い場所を見付けた。
モニター監視業務のシフト表はただ1枚。ウオッチタワーの司令室に貼り付けられたものだけだ。全員の担当時間を記憶に叩き込んでいるブルースも、流石に毎日シフト表をチェックしている訳ではない。だから時折、誰かと誰かが交代しても、その場に行くまで分からない事がある。
だが今日のシフト表には、新たな変更は無い。ランタンとSの字をした2つのシンボルが時間に合わせて、記憶通りに並んでいる。
「調べ物か?」
「…似たようなものだ」
椅子を軋ませてこちらを振り返るグリーンランタンに、蝙蝠の衣を纏ったブルースは微妙な否定を返した。いつもより弱い語尾を奇妙に感じたのか、おや、と言うようにランタンが目を細める。だがあえてそれには答えず、ブルースはシフト表に目をやった。
グリーンランタンがスーパーマンと交替するまであと2時間弱。少々長い上に帰るのは夜更けになりそうだが、メトロポリスのホテルに引き篭もっているより良かろう。時間を潰す手段がここには揃っている。
本当に調べ物をしてしまうと言うのも手だ。ブルースはランタンの横の椅子へと腰掛け、早速ゴッサムにおける犯罪歴のデータベースにアクセスした。
だが2時間後、タワーを訪れたのは鋼鉄の男ではなく、鷹の翼を持つ者だった。
「交替よランタン」
「今日はスーパーマンじゃないのか?」
背後での会話に思わずブルースは振り返った。ランタンもきょとんとした表情でホークガールを見つめている。2人分の視線を受け、ホークガールが目を瞬かせた。
「シフト表、書き替えてなかったの?一昨日ちょっと交替してくれって頼まれたんだけど」
「いや、そのままだったが……分かった」
「4日の担当は貴方と私になってたけど、そっちが私じゃなくてスーパーマンになるから」
「……あ、ああ、分かった」
ランタンのどことなく寂しげな声音を聞きながら、ブルースは1人キーボードに突っ伏したい衝動に耐えていた。
一体今までの2時間は何だったと言うのか。シフト表の書き直しを今日に限って忘れるとは、間が悪いにも程があるではないか。噛み締めた奥歯がぎしりと音を立てた。
「あらバットマン、調べ物?」
「…ああ。だがもう済んだ。これから帰る」
席を蹴るような動作にならぬよう、自分を抑えて極力ゆっくりとブルースは立ち上がった。慣れない事はするものではない、と言う事かもしれない。
「スーパーマンは月末の残業か?」
「さあ?でも残業じゃないみたいよ。どこだかに寄りたいとか、行きたいとか言ってたもの」
出て行こうとするブルースの耳朶に、ホークガールの答えが飛び込んだ。
カンザスの夜空には雲ひとつ浮かんでいなかった。
見渡す限りの草海原では、身を隠す物陰はバットウィングくらいだ。空に浮かぶ下弦の月もゴッサムのそれと同じとは思えぬほど明るい。
すぐ先に灯りのともったケント家がある。静かになろうと思えばどこまでも無口になれる、バットウィングのエンジンにブルースは感謝した。
だが、音の無い着地に成功したものの、どうも中にクラークのいる様子が見られない。時折漏れる声は2人分、彼の両親の分だけだ。
それに、とブルースはバットウィングに軽く背中を預けた。
例えクラークがいた所で、どうやって彼に祝いを言えば良いのだろう。寝室に忍び込む?朗らかな1日の終わりに、氷水を引っ掛けるのも同然のような気がした。
デイリープラネットで軽く言及する予定であったのが、追いに追ってここまで来てしまうとは。彼が行くならばカンザスだと、頭に血が昇ったようにバットウィングを駆ったのが今更ながらに悔やまれる。
しかもその挙句に発する言葉が、中途半端な祝いのものとあっては救いようが無い。もっと早く冷静になるべきだったとブルースは額を手で覆った。
「……帰るか」
バットウィングを目立たぬよう返す事を考えると、少々気が重かった。それでもここで馬鹿馬鹿しく立ち尽くすよりはましだ。ブルースは潔く踵を返した。
そしてケープの翻る音を掻き消すように、ドアの開く音が響いた。
「ジョナサン、ちょっと私ゴミを捨てに――あらまあ」
バットウィングに乗り込んで離陸するには、余りに短い時間だった。思わず立ち止まったブルースの背中に、少し枯れているが柔らかな声が投げ掛けられる。
「こんばんは。あなた確か、クラークのお友達ね?」
はいそうです、と頷くべきか、いや違います、と否定するべきか。
どちらにせよ珍妙なのは変わらない。ブルースは無言のまま、それでもゆっくりとマーサに振り返った。片手に持っているのはゴミ袋だろう。部屋の明かりが逆光となって表情までは良く見えなかったが、彼女が驚いている事だけは確かだった。
「…驚かせてしまって申し訳無い」
「気にしないで。クラークも来る時は突然なのよ」
どさり、と重たげな音を立てて、ドアの脇にゴミ袋が置かれた。マーサは家の中に一瞬目をやったが、すぐドアを閉めこちらへと寄って来る。
「悪いけれどクラークは今いないわ。それとも何か……彼について、悪い知らせが?」
「いえ」
心配げに目を細めるマーサへ、ブルースはすぐ首を横に振った。
「彼は元気です」
「良かったわ。…メトロポリスには行ったかしら?」
「行き違いに。ただ、数時間前の事なので……もう戻っているでしょう」
答えれば答えるほどブルースは自分が愚かしく感じた。いっそメトロポリスのホテルで待っていれば、と自嘲の念が湧く。だがそれを溶かすようにマーサが微笑んだ。
「あの子もすぐあちこちに飛んでいくから大変でしょう?今日も竜巻を消しに来たんだけれど、ちょっと顔を見せただけで行ってしまったわ」
「カンザスに来たと?」
「あら、テレビを見てなかったの?」
目を丸くしてからマーサはくすくすと小さく笑う。細められた目元がどこかクラークに似ているようで、ブルースは少し不思議に感じた。血は繋がらずとも家族は似るもの。そう言う事なのだろうか。
「あ、でもごめんなさい、ひょっとしたらローカル放送だったかもしれないわ」
「…余りテレビは見ませんから」
「まあありがとう、優しい人ね」
答えに詰まりブルースは静かに視線を足元へと落とした。月明かりに煌々と照らし出される己のケープも気恥ずかしい。
「…クラークに会ったら、おめでとうの一言でも言ってやってくれるかしら」
穏やかな声に顔を上げれば、矢張り先程と変わらずマーサは微笑んでいる。
「2月29日は空の向こうで彼が生まれた日なのよ。本当は家で今日にでもお祝いしてあげたいんだけど、何だか色々と考え込んでしまうみたいで」
知ったのが遅かったのもあるんでしょうね。そう言ってマーサは小さな溜息を吐いた。項垂れた頬に掛かった髪が、月光を白く反射している。
「今日も言いそびれてしまったわ。だから、代わりにお願いしたいの」
「…分かりました」
断れる筈も無い。頷くブルースに、ぱっとマーサの顔が明るくなる。
「ありがとう」
「ただ、私の来訪は内密に」
「分かっているわバットマン。…貴方、その人よね?」
「ええ」
問い返す真剣な表情に、思わず苦笑してブルースは応じた。折良くと言うべきか、家の中からジョナサンの声が響く。すぐ戻るわ、とマーサが振り返って答えている間に、ブルースはバットウィングに乗り込んだ。
エンジンを入れるとマーサが目を見開く。それでもジョナサンに聞こえぬよう、極力静かにバットウィングは離陸し、メトロポリスに向かって飛んだ。
屋上からワイヤーを張り、クラークの部屋の窓まで下りていく。
そうして覗いた部屋は暗かった。カーテンもしていない。恐らくまだ帰って来ていないのだろう。ブルースは僅かに落胆した。
マーサの言葉と合わせて、孤独の要塞にいる事も考えたが、それでもブルースはここに飛んだ。彼があの美しいが寒々とした、文字通り孤独の場所で、自分の生まれた日と向き合っているとは――考えられなかったのだ。何時でも迎えてくれる温かな家族がいる、あの彼が。
尤も、考えたくなかったのかもしれない。
ブルースは首を振り、屋上へと昇るべくワイヤーを握り直した。ベルトに掛けようと手を動かした所で、首筋を不意に吹いた風が撫でていく。
「ブルース……?」
一瞬遅れで響いた声に、ブルースは――思い切り長く重い溜息を吐いた。
「随分と遅いお帰りだな」
「いや、うん、それより君こそ、僕の部屋で何を?」
すぐ背後に気配が近付いた所で、ようやくブルースは振り返る。青いボーイスカウトは、目を見開いて信じられないといった顔をしていた。
矢張り表情はマーサに似ている。その事に少し満足してから、ブルースは冷たい声で答えを紡いだ。
「不法侵入か、強盗か、その下準備か。こんな格好の男がする事といったら、それ以外に何がある?」
「…君の場合は慈善活動も加えるべきだと思うけど……それに僕の部屋でそんな事をしても、碌な物は置いていないよ」
「……自分に会いに来たのだ、と思えないのが哀れだな」
ついそう零せば、クラークはえ、と口を中途半端に開いた。半信半疑、と言うのが良く似合う表情に苦笑しながら、ブルースは彼のケープに手を伸ばす。弾みでワイヤーが揺れ、慌てたようにクラークもまたこちらへと腕を伸ばして来た。
抱き合うにしては遠く、支え合うにしては近い距離でブルースは囁く。
「祝いに来た」
「……何を、と聞いても良いかい?」
「自分の誕生日を忘れたのか?それとも、私に教えた事を忘れたのか?」
意地悪く微笑んで問い返せば、クラークが神妙な顔で首を振った。勿論、横にだ。鼻先が触れ合うほど近付いて彼は言う。
「まさか。でも、君が覚えていてくれた……いや、それはともかく、来てくれるなんて」
「随分と手間取ったぞ」
つい愚痴のような言葉が漏れた。申し訳なさそうにクラークの眉尻が下がる。だがそのまま彼は腕を伸ばし、部屋の窓を大きく開いた。
「そもそも、竜巻を消してから何処にいたんだ?」
「ああ。同じ事を聞きたい気持ちだよ」
ようやくクラークに日頃の明るい笑みが戻る。さりげなくベルトからワイヤーを外し、窓枠へと足を掛けたブルースを支えながら彼は言った。
「…君を探していたんだ」
「……な」
まさか、とブルースは声も無く呟く。その頬にクラークが軽く口付けた。
「メトロポリスにいたかな、と思って戻ってみてもいない。それどころか気配が全く感じられない。あちこち探し回って、君のお屋敷でも会えずに諦めて戻ったら――こんな所にいるなんてね」
流石に僕も都合良く考えられない。歌うように答えるクラークに、ブルースは思わず項垂れた。
結局自分達は、お互いを探し回ってあちこち飛んでいた訳だ。
「でも嬉しいよ、ありがとう」
半ば部屋の中に入りながら、クラークはあくまで輝くような笑顔で言う。脱力しそうになったブルースだが、ふと耳元でマーサの言葉が甦った。
色々と考え込んでしまうと言う彼が、自分を探し回っていたならば、少なくとも自分と共にいたいと思った事になる。それはきっと、少なくとも――悪くない、と言う事だ。
「…私もだ」
「え?」
聞こえていない筈は無いのに、聞き返すクラークの襟首をブルースは掴む。
「うわ、危ないよ!」
バランスを崩してクラークが慌てる。その耳元へ、ブルースはとびきり厳粛な声でそれを吹き込んだ。
「誕生日おめでとう、クラーク」
振り回されていた長い腕が、ぴたりと止まり徐々に背中へと回されていく。
「ありがとう」
ほんの少し涙の混じった囁きは、やがて強い抱擁に変わった。