その一口が危機の元

「…チープな夢だな」
 ブルースは思わず、ソファの横に座るクラークにそう返していた。
「ち、チープでも夢は夢だよ!」
「いい加減その、20年昔のラブコメディを引きずるのは止めにしないか?」
「20年前のラブコメディなら君だって同じように見てた筈だろう。身に覚えが無いのかい?」
「その頃の私はテレビなど見なかった」
 う、とクラークが唸った。
 テレビの中ではエンディングが終わり、スタッフロールが延々と流れ続けている。丁度20年ほど昔に作られた恋愛映画だ。当時全盛期だった俳優と女優を起用した作品は、恋人達の新たな姿として持て囃されたものだった。
 その理想から未だに抜け出し切れていない男が1人、己の横に座っていると言う訳だ。最初からそれを知らぬ自分と、引きずり続けているクラークとでは、一体どちらが世間知らずなのか。余り知りたくないとブルースは眉を寄せた。
「とにかくだ、私は付き合う気など無いぞ。何だお前は膝枕しろだの、1つのケーキを2人で分けて食べさせ合いたいだの、三十路近い男の思う事か?と言うか男同士だぞ私達は。恥ずかしくないのか?」
「……酷いよブルース」
 ぽすん、とやや間の抜けた音を立てながら、クラークの頭がブルースとは逆側に倒れる。広く厚い背中を子どものように丸めて、それからクラークは地を這うような声音で呟き始めた。
「男同士だからって良いじゃないか……そりゃあ君は、あんな事してくれる女性が一杯いたから?僕とするのはもう飽き飽きかもしれないけどさ」
「…いや、そう言う事では」
「ほら、僕はさ、誰かと付き合った事なんて殆どないし。ちょっと憧れて言ってみただけなのに」
「クラーク、いい加減に」
「もてない男の夢が今、砕かれて夜風に飛んでいくよ……」
 最後に一際長い溜息をクラークは吐き出した。
――世界の果てまで飛んで行ってしまえ、そんな夢!
 ぎりりと眉を寄せながら、しかしブルースはそれを胸の奥に埋めた。我慢強くなったものだと自分で自分を褒めてやる。それから溜まっていた息をゆっくり吐き、クラークのシャツを引っ張った。
「愚痴はそれで終わりだな?分かったから拗ねるな。こちらを向け」
「……うん」
 案外しおらしくクラークは顔を戻す。演技とばかり思っていたが、眼鏡の奥の瞳がやや潤んでいた。こんな事で嘆くな、と言いたくなると共に、ブルースの心中に同情が沸き上がる。
 だがここで甘やかしてはいけない。躾と同じだ。ケーキの食べさせ合いっこなど、草葉の陰でジョーカーが泣き出しそうではないか。ジョーカーは別に死んでいない上に、泣かれてもどうって事はない存在なのだが、何故かブルースの脳裏にはすすり泣く道化師の姿しか浮かんで来なかった。とりあえず両親は微笑ましく見守りそうな気がするので却下だ。
「ごめん、ブルース」
 下らない事を、とクラークが言った。その声音に漂う物悲しさに、ブルースは駄目だ駄目だと思いながら、思わず口にしていた。
「――1度だけだぞ」
「え?」
「やるのは今日1度だけだぞ」
 雲間からさっと太陽が差し込んだように、クラークの瞳に光が宿る。長い睫が何度も瞬かれた後、唇が動いた。
「ブルース、それ、もしかして」
「良いからデザートを持って来い。それが無ければ――」
「はい!」
 眼前に伸びた大きな手の上には、何時の間にかケーキの皿が乗っていた。
「…能力の無駄遣いはするな!」
 前言撤回をしようにも、はしゃいだクラークが聞き入れる事など無い。渋々とブルースは、所謂「はい、あーん」に付き合うのだった。



 当然その後、1度だけが2度だけになり、3度目4度目と回数が増え――そしてある日。



「やあ諸君、元気だったかい?」
「ブルース!」
 呼び掛けに逸早く顔を上げたのは、予想通りロイスだった。大きな目が花咲くように見開かれる。それから横に立っていたペリー、ジミーと続き、最後にこちらを向くのは眼鏡を掛けた大男だ。
――相変わらずわざとらしい演技だ。
 アルフレッドあたりに指導し直して貰えば良い、と思いながら、ブルースは微笑を消さずに4人へと近付く。
「久し振りじゃないか!前もって言ってくれれば迎えに行ったぞ?」
「君を煩わせる訳にはいかないからね、ペリー。…お邪魔だったかな?」
 見れば4人の手にはそれぞれ、ゼリーらしい容器が収まっている。見渡せばデスクのあちこちにも置いてあった。
「ティータイムかい?」
「いいえ、取材した相手からお礼にってお菓子が送られて来たのよ。皆で分け合っていた所なの」
「へえ、それはそれは」
 随分と珍しい、とブルースは大仰に言った。
「古い博物館が潰れ掛けているって、ケントさんが取材したんですよ。そしたらそれが反響を呼んだらしくて」
 ジミーが誇らしげに笑いながら言う。その横でげほん、とクラークが噎せた。そう言えばそんな記事を1週間ほど前に見掛けた気がする。だがブルースはへえ、と初耳のように驚いて見せた。
「それは凄い!君が良い記者である証拠だよ、ケント君」
「あ、ありがとう、ございます」
 耳から目元まで真っ赤にしてクラークが答える。途中で声が裏返ったのは演技か素か、ブルースは余り考えないようにした。代わりに、クラークの手元のゼリーを覗き込む。
「美味しそうだね」
「ああ、どうぞ」
 素早くクラークがゼリーを掬い取る。何の躊躇いもなくブルースは、差し出されたプラスチック製のスプーンを口に含んだ。オレンジの爽やかな香りが駆け巡る。
 なかなかの美味だ、と思った所で、ブルースはふとクラーク以外の3人が凍っている事に気付き――固まった。
――しまった。
 クラークはと視線だけを動かせば、こちらも完全にしまったと言いたげな顔で固まっいる。ロイスとペリーとジミーの目は、全開と言うのも愚かしい程に拡大していた。
「……ああ、すまないねケント君!ありがとう!」
「え、あ、う、いえ、お」
 母音の練習のように言葉にならぬ言葉を発するクラークを置いて、ブルースはなるべく自然に見えるよう気遣いながら頬を掻いた。
「いや、今付き合っている彼女が良く“あーんしてブルース”ってやるんだよ。条件反射ってやつかな、ははは!」
「や、嫌だブルースったら!驚いたじゃないの」
 ほっとした様子でロイスが言った。彼女の言葉で我に返ったか、ペリーとジミーもやや引き攣った笑いを浮かべる。もう一押し必要らしい。ブルースは気軽にクラークの肩を叩いた。
「しかしケント君も僕の彼女と同じ人種らしいな。随分と自然だったじゃないか。いつも誰相手にやっているんだい?」
「そ、その、じ」
「じ?」
「実家で従姉の子に!」
――私は乳幼児か。
 一瞬だけ眉を寄せたが、ブルースはすぐに元の表情に戻して笑った。
「何だ、可愛い恋人でもいるかと思ったのに」
「す、すいません。ええと、あと、家で飼っていた子牛がお乳を飲まなくなった時とか」
「残念だなあ名記者の秘密が暴けなくて!」
 黙れ、と言う意図を込め、力一杯ブルースはクラークの背中を叩いた。クラークが小さく咳き込む。ちらりと目を動かせば、そう言う事かとどうやらペリーもジミーも納得した様子で頷いている。安堵の波がようようブルースの心中にも押し寄せて来た。
「それじゃあ僕は早々に退散しようかな」
「あら、もう帰るの?」
「何だもっと話したい事があったのに」
 名残惜しげなロイスとペリーに、ブルースは小さく手を振った。
「会議に向かう途中で寄ったんだ。若い奴が遅刻すると喧しく言われるからね。また今度、寄らせて貰うよ」
「そうか。…おいケント」
「はい!」
「下まで送って行け」
「はい?!」
 結構だ、と言おうとするブルースに構わず、ペリーはクラークの背中を押しやった。
「気を付けてお送りしろよ、我が社の大事な社主だからな!」
 その声を背後に、ブルースはクラークを引き連れてオフィスから出て行った。
 VIP専用エレベーターは、2人以外誰も乗り込んで来ない。天高く聳えるメトロポリスの街並みから目を背け、2人は下降の感覚と沈黙を長い間味わった。
「……もう、しないからな」
「……うん、分かったよ」
 やってしまったと言う気恥ずかしさを胸に、ブルースは2度と絆されまいと心に決めたのだった。

日常の癖がついつい出てしまう、そんなワールズファイネストです。

design : {neut}