いつしかここに置いたままの部屋着を身に付けて、ブルースはクラークがシャワーから上がるのを待っていた。夜半過ぎで音量を下げたテレビは、シャワーの水音に負けそうだ。安っぽいコメディを見つめながら、ブルースは瞑想の修行に入ろうかどうか考えていた。
だが修行のチャンスは、止んだ水音と、ドアの開く音で消えた。
――早いな。
体や髪を洗う事に関しては常人と変わらぬ早さだが、体を拭く段になると俄然スピードが上がる。矢張り鋼鉄の男でも湯冷めを感じるのだろうか。
そう考えている内に、湯気の立つような温かさが背中に伝わる。一瞬遅れでクラークの声が真上から落ちて来た。
「上がったよ。どうぞ」
「ああ」
横のタオルを取って振り返ると、鼻腔を淡いジャスミンの香りが擽った。今までこの部屋で嗅いだ事の無い香りだ。
「クラーク、お前」
「え?」
「シャンプーか何かを変えたか?」
がしがしと髪を拭いていた手を止め、クラークがブルースを見下ろす。その仕草と距離が気に入らず、立ち上がるブルースの目に入ったのは、何故か震えるクラークの手だった。
「おい、まさか湯冷めしたのか?」
冗談半分疑い半分で尋ねると、クラークは首を勢い良く横に振る。ついでに髪から飛んだ水滴が手に掛かった。だがブルースは文句を言うより早く、伸びた腕と響く声にそれを潰された。
「ああもう凄く嬉しいよブルース!ありがとう!」
「い、いきなり何だ?!とりあえず髪を拭け!」
クラークの頭から落ちんばかりのタオルを捕まえ、生乾きの髪に押し付ける。しかしそれを抱き返されたと勘違いでもしたのか、背中に回された腕の力は留まる所を知らない。微妙に浮いた足を振ると、2人の間に挟まれていた椅子が危うく倒れそうになった。
「おっと」
「クラーク、早く、離せ」
片腕だけで抱き上げられる、と言う屈辱にも耐えてブルースはそう言った。ただし耐え切れず零れた怒りが、地獄から響くような蝙蝠の声となって現れた為、唸ったと表す方が正しいかもしれないが。
「……うん」
がこん、と嫌な音を立てた椅子は、クラークの手で無事に脇へと置かれる。ほぼ同時に床へと、こちらも置かれたブルースは、持っていたタオルをクラークに差し出しつつ言った。
「それで、何がどう嬉しいのか出来る限り簡潔に説明して頂けるかな、ボーイスカウト?」
「嫌味も女の子にもてる秘訣なのかい?」
「私がこんな事を口説く相手に言うとでも?」
「…そうだね、僕だけだろうな……」
喜んでいるのか切ながっているのか、急に真顔となってクラークが呟く。あさっての方向に放たれている目線をこちらへ戻そうと、ブルースはタオルでぐしゃぐしゃとクラークの髪をかき回した。
「うわっ」
「良いから早く言ってくれないか。バスルームが冷えるだろう」
「あ、うん、その」
誰かの迷惑になる事を嫌う鋼鉄の男は、髪をブルースの手に任せながらこう返した。
「いつも君の匂いとか鼓動とか、そう言うものに気付くのは僕だったから、君が気付いて言ってくれるとは思わなくて」
「…それは」
タオルを離そうとするブルースの手が、クラークの手に包まれ引き止められる。濡れると存外長い黒髪の間から青い瞳がこちらを見ていた。どう切り返そうかと言葉を探している内に手の動きが曖昧になる。そうなるとまるで睦言の最中のようで、気付いた途端に耳朶がかっと熱を帯びた。
「それは?…バスルームが冷えるだろう?」
手が強く握られる。クラークの薄い唇の動きがどんどん近付いて来る。
「それはだな」
「うん」
「……お前がいつも同じ物を飽きもせず使っていたからだ!本当に変わったかどうか確かめるぞ!」
再び、しかし今度は思い切りブルースはクラークの髪をかき回した。クラークの力が緩んだ隙に手を抜き、脱兎の如くバスルームへ走る。短距離走の世界王者になれそうな勢いで中に滑り込むと、すかさずブルースは鍵を掛けた。
「ええ?!」
「ついでにシャワーも借りるからな。入って来るなよ」
「か、借りる相手の言い方じゃないよそれは……」
ドア越しに物惜しげな声で言い募るクラークを、ブルースは無視してTシャツを脱ぎ捨てた。イージーパンツに手が掛かった所で、しかしクラークが明るい声を出す。
「あ、でも、君と同じ匂いになるって事だね」
「……おい」
「変えたのは石鹸だから、使わない訳にはいかないだろう?あ、タオルはここに置いておくよ。それじゃあ」
最後に残されたのは、待っているからの一言。すぐに踵を返す音がした。
「……!」
確かにジャスミンの香りがする石鹸を手にしながら、バスルームに篭城すべきかどうか、ブルースは延々と迷うのだった。