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 ウェイン邸の巨大な広間全てを喧騒が支配していようとも、聞き慣れた声を拾うのは苦にならない。ただ、その声がいつもと異なり――上ずっていたり、呂律が余り回っていなかったりする折には、聞こえぬ方が良かったとも思ってしまうのだ。
 そうであっても彼の声が聞こえる瞬間は鼓動が跳ねる。クラークは勢い良く振り返り、あわや背後の老婦人と激突しそうになった。
「きゃあ!」
「わ!も、申し訳ありません」
「気を付けて頂戴!」
 足早に去るドレスの背中を見送ってから、クラークは再び声の方へと顔を向ける。今度こそ彼の姿が見て取れた。
 美しい女性と共にいる姿が。
「それでね、ブルース」
「ああ、何だい?」
 蕩けるような、と言うか突いたらずるりと落ちてしまいそうな笑顔で、ブルースは金色の髪をした女性に答えた。言葉のひとつひとつが零れる事なくクラークの耳に届く。
――ああ、スーパーヒアリングなんて無ければ良かったのに。
 カモフラージュだとブルースは言うだろう。お前のどじと同じだ、と。クラークも分かっている。諦めてさえいる。だが矢張り、触れられぬ場所でこうして見ていると、ざわざわ喉の奥が騒ぐのも事実だった。
 クラークは視線を逸らした。少し唇を噛んで、広間の喧騒に集中する。遥か彼方の壁に寄り掛かり、犬の話をしている老年男性の声が聞こえ始めた。これで良い。
「もうブルースったら」
 それでもクラークは女性の声に、ブルースへと視線を投げ掛けた。
美しい光沢を見せる彼のタイに、女性の白い指が掛かっている。華のような笑みで彼女はブルースに言った。
「タイが曲がっているわよ。開催者なんだからちゃんとしなきゃ」
「分かっているよ。でもありがとう」
 口付けでもするつもりなのか。屈む素振りを見せた彼から、クラークは慌てて顔を背けた。

 広間の分厚い扉から出ると、ようやくウェイン邸特有の冷えた空気がクラークを取り囲んだ。吐息を白く染めそうな清冽さに、クラークはほっと肩を撫で下ろす。人ごみは苦手だ。
 裏手に当たるこちらには客人達も来ないようだった。薄暗い部屋の中に立っているのは、クラークの他は中世の甲冑に身を包んだ人形ばかりだ。その中にひとつ、奇妙な色形の品を見付けて、クラークは思わず眉を寄せた。
「変な甲冑だな」
「東洋の物だ」
「へえ、それは……」
 知らなかった、と言い掛けてクラークは口を噤んだ。それからようやく、背後の鼓動や呼吸音が耳に届いて来る。
「と言っても風変わりなレプリカだが」
「ブルース」
 いつもながら鮮やかな隠密ぶりを見せたブルースは、シャンパングラスを片手に薄く微笑んでいた。
「良いのかい、開催者が出て来たりして」
「お前こそ記者が油を売って良いのか?」
 ゴッサムの連中に出し抜かれるぞ、とブルースは言ってクラークの横に立った。絞られた照明がシャンパンを白く輝かせる。それに目をやりながらクラークは答えた。
「聞きたい話は大体聞けたからね。それより君は?」
「挨拶は一通り済ませた」
「彼女を放っても?」
 言い終わってから自分の声がやや尖っているのをクラークは悟った。ブルースが愉快気に片眉を上げる。
「ああ。彼女も記者だからな」
「…え」
「知人なんだ。狙っていた取材相手が帰ってしまったから、私で暇潰しと言う訳さ」
 ならば自分の嫉妬はやや見当違いだったと言う訳だ。クラークは脱力し掛かったが、ブルースの笑みを見て姿勢を正した。唇を結んで、胸を張る。
「それは知らなかった。でも知り合いなら、尚更放っておく訳にはいかないだろう?」
「早く戻れと言うのか?」
 ブルースはそう言って、クラークの目前にグラスを掲げた。
「見ていただろう」
「…何を?」
「先程のこれを、だ」
 一瞬だけ肩を震わせたクラークに、ブルースは自分のタイを突いて見せた。完全に先程の覗き見が知られているらしい。背中を縮め掛けたクラークだったが首を振り気を取り直した。こうなれば自棄だ。
「偶然だよ。それに、大して気にしていない」
「と言う事は、少しは気にしているんだな」
「ブルース」
「分かった」
 顔に血が上って来たクラークとは対照的に、ブルースはどこまでも涼しい顔だ。悠々とした彼の態度に、どうやり込めてやろうかとクラークの負けん気が刺激される。ブルースの隙を探すべく揺れ動いていた視線に、折良くタイが飛び込んで来た。
「だって」
 そもそもの元凶であるそれに手を伸ばしながら、クラークは言った。
「僕はこれを解く係なんだから」
 グラスを弄んでいたブルースの指先が、ふと止まった。灰を帯びた青い瞳がクラークを見返す。やや尖った唇が震え、そしてクラークに言葉を投げ掛けた。
「その係を独占したいなら、早く素直になる事だな」
 言い終わってすぐ、柔らかいものがクラークの唇を塞ぎ、すぐ離れた。
「あ」
 黒鳥のように翻った背中を留める術は無い。長い脚をさっさと動かして、ブルースは広間に戻って行った。
 それでも扉を開けた拍子に、彼がちらりと見せた笑みは、クラークをその場に固まらせるには十分な威力を持っていた。

多分アルフレッドが通り掛かるまで動けない超人。
そして映画無印蝙蝠をささやかにリスペクトしてみました。
女性記者はビッキー・ベールで。
あの怪しげな鎧は、絶対坊ちゃま業者に騙されたんだと思います。
マイキー蝙蝠はそう言う所が恐ろしく鈍そうで素敵です。

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