革張りのソファは何時に無く艶やかな表面を保っていた。しかしその滑らかさも座り心地も、ブルースには些か物足りなかった。否、客間から住民達の気配が全く感じられない事が、彼にとってはソファの快適さよりも重大な問題だった。
いつもならば我先にと押し寄せ、波のようだと言うのに。彼らがいないとなると、いっそ寂しささえ感じてしまう。
思わず俯いてしまったが、やがてドアの奥から足音が聞こえて来た。ひとまず背筋を伸ばし――伸ばし過ぎないようにする加減が難しい――邸宅の主人が現れるのを待つ。
細く開いたドアの隙間から、しなやかに姿を現したのは、美しい毛並みの黒猫だった。
「お待たせ」
猫の後から現れたセリーナに、ブルースはにこりと笑い掛ける。
「ありがとう。…その子以外はお出かけかな?」
「いいえ、2階にいるのよ。ちょっと地下室の工事があったから」
「ああ、それで」
耳を澄ませばセリーナ以外の住民、すなわち猫達の足音が上から微かに聞えて来る。かりかりと爪で床を引っかく音も聞こえた。安堵したブルースの膝に、物慣れた仕草で黒猫が飛び乗る。
「あ、こら!」
「良いよ良いよ。ここはいつも賑やかだから寂しくてね」
あとでガムテープでも分けて貰えば、と言いながらブルースは猫の顎を指先で撫ぜた。満足げに喉を鳴らす黒猫に、それでもセリーナは柳眉を顰めている。
「ごめんなさいね。この子ったらお客と見たらすぐに出て来るのよ」
「人懐っこいのも魅力の一つさ」
すぐに腹を見せた猫の毛は、艶といい触り心地といい、堪らなく魅力的だった。先日訪れた時との違いにおや、とブルースは首を傾げる。
「前と触り心地が違うけど、何かあったのかな?」
「毛が冬毛に生え変わったの。先月は凄かったのよ。辺り一面が抜け毛だらけで」
「ああ、冬毛か」
猫の城とさえ呼べるこの邸宅ならではの風景だったろう。思わず苦笑するブルースの手の下で、黒猫は軽やかに身を捩る。ふっさりとした感触が、ブルースにある事を思い当たらせた。
「…冬毛ね」
「まだ抜け毛が激しいかしら?」
「いや、そんな事は無いよ」
黒猫を受け取ろうとしてか、手を伸ばしたセリーナに微笑しながら、ブルースはずっと脳裏にある事を思い巡らせていた。
その夜、月が山の端に沈み始めた頃。
「…ブルース?」
「うん?」
「あ、あの」
手を取られてブルースは少し眉を寄せた。冬の空よりも澄んだ青い瞳が、ブルースの手と顔の間をさ迷うように揺れる。もどかしさに少し力を入れれば、クラークはあっさり手を引いた。2人を包んだ大きなシーツもまた、ざわりと衣擦れの音を立てる。
「何だ?」
すっかり癖を取り戻したクラークの髪に、ブルースは再び手を伸ばす。だがクラークは僅かに頭を引き、手から逃れた。
「……君、今までそんなに僕の髪を触っていたかなって」
珊瑚色になったクラークの耳朶がおぼろに浮かび上がる。夜明けが間近に迫った窓の外を見ながら、ブルースは小さく呟いた。
「…冬毛がな……」
「冬?」
「いや、何でもない」
忘れてくれ、と覆い被せるブルースに、クラークは怪訝そうな顔をしながらも、たっぷりとした黒髪を弄らせていた。