「ねえブルース、抱き締めても良いかな?」
「ブルース、君にキスしたいんだけどしても良いかい?」
「その、ほら、ブルース、折角2人で眠っている事だし、ええと……」
ブルースはとうとう心中に書いた「忍耐」の文字が、音を立てて崩壊していくのを感じた。振り返れば、枕を抱えるクラークが期待とも何とも付かぬ表情でこちらを見返している。
「クラーク」
「うん!」
「何なんだ」
「……え?」
掛かっていたシーツを剥ぎ取れば、ケープさながら白い布が宙を舞った。
枕を抱えたまま口を開けているクラークは、名高い鋼鉄の男と到底思えぬ呆けっぷりだ。苛立ちを煽られたブルースは、手を伸ばしその襟首をがっしと握る。痛い痛い伸びるシャツが伸びる、と抗議されるのも構わずに、力を入れて持ち上げた。
「ど、どうしたんだい?」
向かい合って慌てているクラークの肩を、逃さぬと言わんばかりにブルースは掴んだ。
「何故お前はそう私にハグだのキスだのの許可を求めて来るんだ?」
ブルースは闇夜の騎士の折に近い声でそう言った。急に低まった声音に驚いたのか、それとも何か図星を突かれたのか、クラークが視線を周囲にさ迷わせる。
「え?いやそれは、あの」
「私の記憶では2週間前からずっとそうだな。急に問うようになったとは不可解極まりない。5秒やるから速やかに答えろ」
ええ、と素っ頓狂な声をクラークが上げる。が、その耳朶が薄紅色に染まっているのを見るに、何か理由はあるらしい。ブルースはより一層クラークに顔を寄せた。威嚇のつもりだったのだが、クラークの頬がぽっと染まる。
「5秒だ。答えろ」
「そんな、いきなり聞かれても困るよ」
「気になって仕方ないんだ」
「寝られない程?」
その“寝る”がどの意味を示しているかは、ブルースの太腿を撫でる手がはっきりと教えてくれる。力を入れずにブルースはクラークの手を叩いた。入れない理由は優しさではない。彼には大差ないからだ。それでも痛い、と呟いてクラークは手を引っ込めた。
「理由はあるのだろう?早く教えろ」
「…嫌だ」
「なら金輪際お前の問いにはノーだ」
「酷いよブルース!」
「しっ」
勢い良く顔を上げてクラークが叫んだ。しかし今が何時だと思っているのか、と言うブルースの視線に慌てて彼は口を押さえる。アパートの壁はウェイン邸のそれと異なり薄いのだ。睨み上げるように見つめれば、口を押さえたままクラークは小さく呻いた。
「分かった、教えるよ。…でも君もノーばっかりだと辛くなるんじゃ……」
「余計な事は言わなくて良い」
頬に上る熱を無視してブルースは促した。どことなく恨みがましそうな青い瞳で、クラークはしばしブルースを見ていたが、夜風に吹き消されそうな声がその口から紡がれる。
「…だって君、僕が触ったら心拍数も体温も発汗量も上昇するのに、嫌がるじゃないか。だから何か不都合な事があったらいけないな、と思って聞いていたんだよ」
ああ、あと呼吸も少し速くなるね、とクラークは軽く付け足した。青い瞳が陽光も受けずにきらきら輝いてブルースの目を射る。
脳裏にヒートビジョンを食らったようなブルースへ、彼は更に言い募った。
「でも本当にどうしてなんだい?興奮しているのに拒否するだなんて」
「……クラーク、お前」
「え?」
「確信犯だな」
上気した顔で睨み付けても迫力など無きに等しいのだろう。そう思いながらもブルースはクラークを見据えた。途端に大きな目がきゅっと細められる。頬に刻まれる微笑が憎らしい。歌うようにクラークは言った。
「何がかな?僕は君のような名探偵じゃないんだから、分からない事はちゃんと教えてくれないと」
「この策士」
「まさか」
大きな手がブルースの背中に回った。耳朶に口付けをひとつ落としてから、クラークの薄い唇は睦言のような密やかさで言葉を紡ぐ。
「…でも困った君を見るのは少し楽しかったな」
「くそ、…もう2度とイエスとは言わんぞ」
「良いよ。だけど」
優しくブルースを引き寄せながらクラークが囁く。
「今度からはもう少し素直になってくれ。…拒否されると結構傷付くんだ」
打って変わった真摯な声に、一瞬ブルースは身を震わせた。クラークの背中に手を回してから、彼の耳朶に言葉を吹き込む。
「――検討しよう」
そのまま受け入れる訳ではないと言う答えに、クラークがくくっと肩を震わせた。
「君の答えにしては発展的だね」
「らしくないか」
「だけど嬉しいよ」
耳朶から首筋へと滑り落ちていく唇が心地良い。目を閉じて感触を味わおうとしたブルースに、クラークの低められた声が掛かる。
「で、2週間ずっとイエスを貰えなかった事をしようと思うんだけど、良いかな?」
「……イエスが欲しければ」
背中から頭へと手を伸ばし、ブルースはクラークの髪を引っ掻き回した。
「ノーと言わせない事だな、クラーク?」
「…尽力するよ」
夜中に相応しい沈黙が部屋の中を支配する。
それから先は、イエスやノーはおろか、問い掛けすら口にされる事は無かった。
アンサータイム
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