読書が好きな子どもなら1度は経験があるだろう。親がお休みのキスをして、部屋の電気を消し、ドアを閉めてから、こっそり忍ばせていた本を取り出す体験だ。近寄る足音がないか警戒しながら、小さな懐中電灯で拾う文字は、日の光や電灯の下で見るそれよりも子ども達を引き付けてならない。
彼らの夜の冒険は、大抵親に見付かるものと相場が決まっている。隠し場所である枕の下より、少しだけこぼれている表紙の角を、親の鋭い目は見逃さない。尤も悪書でない限り、彼らも寛容に見逃して、「本は棚に」と言う位ではあるが――その本が悪書とも良書ともつかぬ場合はどうすべきだろう。
例えば、ヒーローのデータブックでは。
可愛げのある言い方だが、アルフレッドの手にあるのは単なる「あにめひーろーだいじてん」とは趣が違う。確かに、弾丸よりも速いだの、機関車よりも強いだの、大雑把に言えば同様かもしれない。しかし生物学的な所見や物理学的な考察が満載の、数字が大量に羅列されたノートは、子どもが見てもつまらないと放り出してしまうだろう。
唯一彼らの興味を引くものといえば、あるヒーローの写真が多数貼り付けられている点か。それも架空ではなく、実在の、そして物語の人物よりも格好良いだろうスーパーマンの写真である。ただ、良くある絵図とは異なり、あらゆる角度から取られている為に見栄えがするとは言い難い。
アルフレッドは、今まさにメトロポリスの高いビルディングをひとっ飛びせんとする彼の写真を見つめ、溜息を吐いた。
これを作った主人の、偏執的とさえ言える研究意欲には、数十年付き合っているアルフレッドさえ驚く事がある。亡き先代も医学の研究で閉じこもりきりになり、亡き奥方と自分を嘆かせたが、今の主人は正しくその後継だ。
しかしアルフレッドはそれだけを嘆いている訳ではない。枕元での読書が視力の低下や姿勢の悪化に繋がる、という親の心配とも異なる。部屋にまで仕事を持ち込むのは如何なものか、という非難に少し近いそれは、懸念であった。
プライベートと仕事と夜の散歩がまぜこぜになっている主人の事だ。当然、自室で優雅に文学と遊ぶだけな筈もなく、この部屋にはよく「すてきな広い地下室」の持ち物が入り込む。だが、それらは全て、その日の内に速やかに、主人の手によって地下室に戻されていた。誰かが入り込んだ際、ケープ姿の救世主と彼が同一人物だと思わせない為である。主人のセキュリティ意識は極めて高かった。
その主人が、地下に置かれるべきものを自室に置いている。しかも寝室に、更には枕元、いや、枕の下にだ。主人が「どきどきするお散歩」の準備をし始めて以来の、驚異的な大事件である。
これは少年の夜の冒険と言うよりも、少女の夜の秘密と言った方が良いのではないか――12日間真水に浸した鏡で満月を映すとか、そういうものと同類だと。
ただ、そう思った所で、アルフレッドにとっては前代未聞の事件である。
見なかった事にして戻しても良いが、あの主人である。場所の微細なずれを発見し、見付かったのだと悟る可能性も十二分にありえる。知らずに過ごす可能性も同じ位ありえるが、思い煩う者は日常を遥かに越えた次元で生きているのだ。あの、全集中力を「心はずむ夜のお散歩」に費やし、日常には一片たりとも残していないような、寛いだ主人で考えない方が良い。
同じ事ならばいっそ「恐れながら枕元からこんな物が出て参りました」と告白すべきか?しかし余りに単刀直入過ぎる。シャイな主人が本を抱え、邸の裏にある断崖絶壁から身を投げ出しかねない。もっと関節的な、恋の翼で宙を舞っている者に相応しい、詩的なやり方を選び取るべきだろう。
しばし寝台の傍らで模索してから、アルフレッドは夢見る少女のやり方に倣おうと決め、データブックを手に踵を返した。
東の空がほのぼのと薔薇色に染まる頃、ブルースは自室に辿り着いた。
――疲れた。
シャワーの温もりと疲労を残す肉体は、勢いよく倒れこまれたベッドに悲鳴を上げさせる。だが無頓着にブルースはシーツへ顔を埋め、陽光の匂いに全身の力を抜いた。うつ伏せたまま足を振り、スリッパを脱ぎ捨て、バスローブをその上に落とす。あとはシーツを被って眠ればいい。
ただ、今日は後頭部に何かが当たっている。寄せられた眉はそれでも、記憶に届くとすぐに開かれた。
――クラークの資料か。
この所メトロポリスに現れるのは、少し厄介な連中だと言う。「久々に本気を出すかもしれない」と爽やかに、しかしそれ以上に精悍に微笑むクラークの顔が過ぎる。些か鈍っている体を見直したいのだが付き合って欲しい、との頼みを受けたのは3日程前になる。以来クラークの要請に答えるべく、ブルースはそれまでのデータを総ざらいしていた。
データの鬼だ偏執狂だと喧しく騒がれる事もあるが、こういった場合に備えておくのもまた必要なのだ。ブルースとしては止めるつもりなどない。
ただ、いつもすぐケイブへと戻すのに、枕の下に置いたのは反省すべきセキュリティの甘さだ。自室とは言え甘く考えてはいけない、と先程までの気だるさを追い払うべく、軽く頭を払いつつブルースは考えた。
気付いたからにはすぐケイブに納めておく方が良いだろう。上体を起こし、枕の下にある1冊をずるりと引き出すと、記憶と異なって随分薄くなっている。
さっと表情を引き締めたブルースは中身を確認し――
「お呼びでございますか」
「ああ、アルフレッド」
とりあえずバスローブを引っ掛けたブルースは、ベッドの上に座りながら、忠実な執事に本を示した。
「教えてくれ。これは君の仕業か」
「はい」
そう躊躇いなく頷かれると出鼻が挫ける。だがブルースは主人としての威厳を増すべく、引き攣る顔を沈めながら、冷静に尋ねた。
「何なんだ、これは」
「ご友人のアルバムでございますが」
「見れば分かる!」
冷静さはあっさり崩れた。
開かれたページには所狭しと写真が――クラークの写真が貼り付けられていた。戦っている所、飛んでいる所、取材陣に囲まれ苦笑している所、ウオッチタワーでピーナッツバターとジャムを塗ったパンの上にゼリーを乗せようとして止められている所。ブルースが撮ったそれらは、ファンが見たら卒倒しそうなお宝であった。
しかしデータとして扱うには余り役に立たない。「とりあえず」という気持ちで写した物であったから、雑然と保管庫に入れておいた筈だ。それがどうして1冊の本に装丁され枕の下に入れられているのか。ブルースには皆目検討が付かなかった。
「お言葉ですが、ブルース様」
「何だ」
毅然としたアルフレッドの姿は、誰もが恐れをなす闇夜の騎士の声にも、幾分かの不安を混じらせる。むっつりとした表情を繕うブルースに、アルフレッドは静かに言った。
「夢を見る為に枕元へ忍ばせる物ならば、データブックよりもこちらの方が少々相応しいのではありませんか?」
「ゆ、夢?」
――ひどい誤解を受けている。
ブームチューブで5往復した後のような気分だった。しばし唖然としてから、ブルースは首を振る。
「…アルフレッド、僕はそんなつもりなど全く無かった。大体そんなおまじない事をするような男に見えるのか?」
「恐れながら、未来の結婚相手が見えるまでと、一晩中鏡の前で粘っていらした記憶が」
「8歳の頃の話を引きずらないでくれ!しかも教えたのは君だった!」
「発育に必要な睡眠時間を奪ってしまったと、今でも後悔しております」
全く、とブルースは頭を抱える。ケープとマスクを付ける事も受け止めてくれた、何より得難い存在であるが、100歩ほど先を読んで受け止めてくれるのは困りものである。
いやこの場合は100歩どころではない。あくまで友人に対する自分の努力を、曲解されるのは甚だしく心外である。
たとえ、彼のデータを読む時間が睡眠時間に少しだけ食い込んでいたり、うっかり枕元に置いたりしても、それは自分が凝り性だからである。他の理由は無い。無いと言ったら無い。そう説明しようと顔を上げたブルースは、背後に向けられたアルフレッドの視線に気付いた。
視線を辿ってゆるりと振り返れば、すっかり明け白んだ窓の向こうで、赤い顔をしたクラークが浮いていた。
見事な線を描く脚を組み、ザタンナは久々のウオッチタワーで1人、コーヒーを楽しんでいた。目の前には博物館から発見された古書が浮かんでいる。
危険な呪術が無いか調査して欲しい、と頼まれた代物だが、今まで彼女が見る限りでは、特にそういった類はない。それ自体に力が篭もっている訳でもなく、むしろごく普通の、少女達がひそひそと楽しむ「どきどきするおまじない」の本だ。
「ザタンナ」
「あら、バットマン」
気配を感じさせなかったバットマンに、久し振り、とザタンナは微笑みかけたが、彼の顔色の白さに驚いた。闇夜の騎士の顔色の悪さはいつもだが、今日はとりわけ酷い。
「…何かあったの?」
「いいや。…ただ、専門家の君に聞きたい事がある」
「どんな事?」
「――縁を切る為の魔法やまじないを知らないか」
彼が言い終わってすぐ、部屋の大きなドアが開く。珍しくバットマンの肩が震えた。
「やあ、ザタンナ」
その肩の向こうで片手を挙げ、スーパーマンがにこやかに挨拶してくれる。同じく手を挙げ応じ、彼と、俯いているバットマンを等分に見比べてから、ザタンナは首を振った。
「ごめんなさい、力にはなれなさそう」
「……そうか」
地の果てを吹く風のような声で答えると、バットマンはスーパーマンの傍らを、大きな半円を描いて消えて行った。
彼の背中を「それじゃあ」と、矢張りにこやかに挨拶してから、スーパーマンが追い掛けていく。何をしに来たのだろうか、という疑問はあるが、どうやら自分は間違った事をしていないらしい。その安堵がザタンナに息を吐かせた。
「本当に、何かあったのかしら……」
呟きはしたが余り答えを知りたくない。
燕尾服の裾を翻し、彼女は再び、「恋しい相手の夢を見るには」と題されたページに目を向けた。