「…それで彼ったらオレンジに紫の水玉柄したヒトデを、綺麗だなんて散々褒めちぎるのよ!真ん中が裂けて牙が見えるようなヒトデを!1メートルくらいありそうな舌を伸ばして、ガラスをベロンベロン舐めているヒトデを!」
「ロイス、落ち着いて。君がヒトデを食べたいと思われるよ」
瀟洒なレストランの中は、室内楽も適度に抑えられている。周囲から離れた個室とは言え、彼女のよく通る声音を遮る事は難しかったろう。
「あ、やだ、ごめんなさい」
慌てて口を抑えた彼女に、私はにっこり笑って片目を瞑った。
「勿論、君がご所望なら作らせよう」
「ブルース!」
メインの肉料理を食べ終えて、僅かに湿った唇が尖る。演技ではない笑いが私の頬を緩めさせた。さばけた大人の女性だというのに、ロイスは時折こうやってチャーミングな一面を見せるのだ。
今宵のように私が彼女を誘うのも、単純にカモフラージュとしての必要性からではない。「彼」がロイスを孤独の要塞へ招待した理由と、ひょっとしたらそう大差はないかもしれなかった。
「しかし意外だね。彼の事でそんなに怒るなんて」
物語のヒーローに憧れる少女のようなロイスは、「彼」を悪しざまに言う事がない。彼女の悪口雑言を買うのは、もっぱら私――いや、ゴッサムの蝙蝠と決まっていた。思わず出た感想に、ロイスが視線をテーブルクロスへと向ける。
「…だって、彼、そんなにヒトデを褒めた後で言うのよ。あの真っ青な瞳をきらきら輝かせて、お姫様に語りかけるみたいな声で、私に囁いたの」
君もとても美しい、と。
ここで一緒に暮らせたならどんなに素晴らしいか、と。
ああ、何とロマンチックな台詞だろう――「彼」が自身のコレクションを褒めた台詞の後でなければ。そのコレクションがヒトデと、イソギンチャクと、イレズミコンニャクアジに似た生物でなければ。これが宝石の類であったなら、ロイスとて瞳を曇らせる事なく、「I do.」と簡単に答えていただろう。
あの馬鹿、と私は呟きそうになった。私と会う度にロイスへの賛辞を並べ立てていた「彼」。密かに応援していたこちらの心中も知らずに、無粋と言うも愚かな言葉を発するなど、男の風上にも置けない。レクチャーの1つや2つでもしてやれば良かったのだろうか。
だが、呆れを露わにして怪しまれてはまずい。それにあの男を罵るよりも、眼前で涙ぐむ淑女を慰める方が優先事項だ。ただ、余りと言えば余りな台詞に、良い文句が浮かんできそうになかった。そうこうしている内に、ロイスは哀しみを再び怒りに変え、長い睫毛に囲まれた眼を吊り上げている。
「幾らクリプトン人だからって、言って良い事と悪い事があるわ!」
「全くだ。でも、きっと……価値観が複雑なのさ。ほら、ルノワールとダリを一緒に愛する人だっているだろう?」
「その例えだったら私が薔薇の頭の女よ」
ロイスはつんと顔を背けた。成る程、そしてイレズミコンニャクアジがイレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢になる訳か。ぞっとしない。
結局その夜のロイスはご機嫌斜めなままで、誘った私はご機嫌取りに追われる羽目となった。女心に付き合う方が、ヴィランとの戦いよりも過酷な時もあると、じっくり教えられた一晩であった。
「お前の所為だ」
「そう言われても」
ゴッサムの夜に包まれてなお太陽の如き男が、他人事のように首を傾げる。ガーゴイルを踏む足につい力が篭もった。
私はこの男が述べるロイスへの賛辞を、耳にタコが生息する程に聞いている。好意と思慕に満ち満ちた言葉はまるでティーンエイジャーのようで、おかしく思うと同時に、この男への親近感も沸き立たせていた。矢張り彼も人の――地球人とクリプトン人の違いがあるとは言え、人は人だ―― 子なのだろうと。所謂「微笑ましい」というやつだった。
それがどうだ。今や美的感覚も価値観も、地球とクリプトン以上に遠く離れて感じる。
「綺麗と思うんだからしょうがないだろう?君にも見せたいよ、あの美しい隆起と色合いを」
「断る。蛍光色のイソギンチャクなど深海以外では見たくない」
「いやあの色合いは蛍光色と言うよりも」
「詳細な説明をするな」
思い切り眉をしかめて私は顔を背けた。先日のロイスも似たような行動をしていたが、私はこの男のように、弾丸より早く視線の先へと回り込む無作法はしなかった。
青と赤と黄色。見慣れた筈のコスチュームだが、改めてこう思う。
「お前は趣味が悪い」
「酷いな。ロイスに失礼だ」
「それだけは褒めてやる。それだけだ。お前は本当に趣味が悪い」
眼前にある色彩の暴力から逃れるには、眼を瞑るか飛び退るかだ。どちらもせず私は嫌味な程に整った顔立ちを見据える。
空中に浮かびながら、逞しい腕を組む姿。この男にとっては何の変哲もない格好だが、ゴッサムの夜景を背負った様は絵になった。悪い事に風まで吹いてきて、赤いケープが優雅に靡く。
男で良かった。この男に微笑み掛けられながら「君はヒトデと同じように美しい」などと言われたら、絶望と歓喜でビルから飛び降りたくなるに決まっている。ロイスのような強い女性でさえ眼に涙を浮かべていたではないか。
「そうかな。趣味は良い方だ」
「…何を根拠に」
答えるのが遅れた理由は、そこから目を外したいのに外させてくれない。右へ左へ。私の筋肉の動きを察知してでもいるのか、煩わしいまでに視界へと入って来る。
馬鹿馬鹿しいので首を止めたら、満面の笑みが花咲いた。
「君も綺麗だ」
とりあえず振るった拳は空を切った。こんな時に限って視界から逃れる男が真横で微笑む。罵詈雑言を封じ込める爽やかな空気が広がり、私は憎々しさに歯噛みした。
「ケープの形や手甲の刺々しさ。色合いも地味だけど調和が取れていて素敵じゃないか」
どうやらコスチュームの話らしい。それならば私もやぶさかではない。アルフレッドと徹夜で考えた自信作を、褒められるのは悪い気がしなかった。
「適度に顔を覆い隠すマスクもいい」
「…デザインを思いつくまで苦慮し」
「勿論、素顔もとても綺麗だ」
唐突に顎先を撫ぜた指が、背筋に戦慄を走らせる。最後まで言い切らず私は飛び退った。
「一緒にいられたらどんなに素晴らしいか」
だが、背後の床に着地しても、男との距離は縮まらない。適度な距離を保ったまま追ってきている。ディックに付き合ってホラー映画を見た時のような、否、それより強い寒気がした。
「待て」
「何だい」
「お前は本当に趣味が悪い!悪すぎる!そもそもお前はロイスが好きなんだろう!」
「そうだよ」
大きな掌を私に伸ばし続け、男はさらりと肯定した。口元を緩められると、その背後から後光さえ差しているような心地がして、飛び退る速度が僅かに緩む。逡巡を理解していただろうに、先程と同じ速度のまま飛び込んできた男は、先程よりもずっと近い距離を手に入れる。
背中へ回った手に心臓を掴み取られるような気がした。
「でもブルース」
耳元で囁かれる「お姫さまに語りかけるみたいな声」。ロイス、君は正しい。童話で姫をたぶらかす悪者は、きっと皆、こんな声音をして近付いていったに違いない。自分が「お姫さま」だとは微塵も思わないが、反応としては彼女達と変わらないのが情けなかった。
真夏の空めいた瞳は今や、瞬きの音が聞こえる程に近い。その瞬きで隠れるのさえ惜しいと思いながら、私は男の唇が、次の言葉を発するまで待っていた。
「ほら、ルノワールとダリを一緒に愛する人もいるだろう?」
声の残滓は私の唇に消え、「そういう問題ではない」と私が見出した反論は、永遠に紡がれる機会を失った。