クリスマスシーズンのウェイン邸は、いつもより少しだけ人口密度が高い。パトロールの手伝いと、アルフレッドの手料理を目当てにやって来る、ティムの先達の為である。
1年の締めくくりをヴィラン達が黙って見過ごす訳もなく、この時期のゴッサムは恐らく、全米で1番警察とヒーローが活躍している。普段は来るな入るなとっとと帰れと口を酸っぱくするブルースも、この時期ばかりはディックの古巣帰りに寛容だ。猫の手も借りたい忙しさと、しかしながら他ヒーローの手は借りたくない矜持が、どうにか握手し合った結果と言えよう。つい先日もヴィランの共同戦線を纏めて伸してしまった鋼鉄の男が、出入り禁止の宣言をされたばかりである。
その甲斐あって、現在のアーカム・アサイラムは玩具屋よりも賑やかになっている。葬儀屋よりも湿っぽいかもしれないが、彼らの事だから1人でも聖夜を楽しく過ごしてくれるだろう。市警による歳末特別警戒もあり、今年は無事に、何より平和に越せそうであった。
「案外ブルースは不満かもな」
笑みを含んだ声に、ティムは大きなテレビからソファへと視線を移した。鳥の巣篭もりさながらに、クリーム色の大きなクッションに顎を埋めたまま、ディックはティムへと語り続ける。
「毎年そうなんだよ。1回目のパトロールを終わらせても、まだ何かあるんじゃないか、起きるんじゃないかってそわそわするんだ。今だって部屋で記録の洗い直ししてるだろ?止まったら死ぬタイプさ」
「今更過ぎない?相手はブルースだよ」
「それもそうか」
ディックは目を細める。Tシャツにジーンズという、冬場には些か寒い格好だが、彼と暖炉が燃える室内には良く似合う。机に広がっている菓子の残骸といい、2回目のパトロールには絶対に出ない、という覚悟が透けて見えるようだった。
気持ちは分からなくも無い。ティムは再びテレビに視線を向ける。映っているのはモノクロ映画ながら年末のお約束と言うべき「素晴らしき哉、人生!」ではなく――それ故にディックは散々文句を吐き、数時間掛けて自宅からDVDを持って来ようとしていた――、汗ばんだTシャツにジーンズを着た俳優の姿だった。
ディックの姿同様、この時期には不釣合いな代物だが、名画を振り返るというテーマなのだから仕方ない。「素晴らしき哉、人生!」は明日の放映だ。ティムとしても2回目のパトロールまでの暇潰し、という気持ちで見始めたのだが、今となっては終わるまで2回目に出たくない。
話は丁度佳境に差し掛かっており、バリバリとスナックの音を立てていたディックも静かになった。酔っ払いの夫が妊娠中の妻を殴り、アパートの2階の部屋へと逃げられている所だ。シャワーを浴びせられ目が覚めた夫は、ぼろぼろのTシャツを身に纏いながら、階段の下で妻の名を呼び続ける――そして妻は、涙を流す夫に絆され、自宅に戻っていく。
「今度やってみるかな」
ぽつりと零したディックに、ティムは少々冷ややかな一瞥を向けた。
「許してくれないと思うけど?」
「おい何だよその『あんたはスタンリーの足元にも及ばないよハハン』みたいな顔は」
「いや、そこまで言ってないけど」
「俺のどこが駄目なんだよ?」
ヒーローらしい素早さで身を起こし、ソファの上でディックは両腕を広げる。しなやかな筋肉を纏いながらも、どこか線が細く感じるのは、柔らかな顔立ちの所為だろうか。確かにディックはモデルとしても俳優としても通用する二枚目だ。飛び跳ねている黒髪を直し、赤いケチャップの付いたスマイルマーク柄のTシャツを脱がせたら、の話だが。
ティムは眉を寄せた。ああどこぞの闇夜の騎士に似てきている気がする、と思いながら、なるべく所帯じみないよう気を付けて言った。
「とりあえずTシャツをシミ抜きしたらどうかな」
「こ、これは柄の一部だ!」
「ディック、小学校1年生でもそんな言い訳しないよ?」
「本当に柄の一部なんだ!全く、コメディアンを知らないとは……」
冗談じゃないぜ、と言いつつディックが柔らかい黒髪をかき回す。同性の目から見ても彼は魅力的だが、今はクリスマスシーズンだ。ティムとしては目前にいるハンサムよりも、銀幕にいるヴィヴィアン・リーに酔いたい。
「ああ、それにしても1回やってみたいよな。階段の下から『ステラー!』って」
再びディックが叫ぶ。ソファの上で何やら夢見てる彼に、ティムは現実がどういうものか思い出させる事にした。
「『バーバラー!』とか『コリー!』とか『ヘレナー!』じゃなく?」
「お前もうちょっと敬意を払えよ!」
「いやだなディック、例えの話じゃないか。目に浮かぶよ。時計塔から降りて来るバーバラの冷たい顔が」
「……ホラー映画だな」
まさに我々に相応しい、とティムはちらりと思った。
ケイブに広がる暗黒や、街の暗がり、ヴィラン達の微笑を思い返すと、ここでこうしているのが逆に不思議だ。暖かな室内でクリスマスの暇潰しをしている自分達が、妙に場違いな存在に思えて来る。
恐らく上階にいるブルースもそうなのではないか。ティムにはむしろ、「普通のクリスマス」の雰囲気に慣れ切っているディックの方が、少々不思議ではあった。
「やっぱり駄目かな……こいつならいけると思ったんだけどな……」
そんな風に思われていると露知らず、ディックは長い睫毛を伏せて、何やら思いを馳せている。イブの予定も無いと言っていた事だし、ひょっとして本当にバーバラ乃至他の人物と喧嘩し、愛想を尽かされているかもしれない。ティムの脳裏につい先日、ガールフレンドから平手打ちを食らっていたブルースの姿が思い起こされた。彼の場合はクリスマスシーズンの予定を全てキャンセルした為なのだが、さて目前にいる彼の場合はどうなのだろうか。柔らかそうな下唇を尖らせるディックを、放っておくまでティムは闇夜の騎士に近くない。
「…まあ、でも、泣いて相手の名前を叫ぶ訳だからね。失敗したらダメージも大きそうだよ。止めとくのが無難だと思うな」
「そうだな。実際にやってる奴もきっといないだろうし――」
「ブルースー!!!」
屋敷を文字通り揺らした大声に、ディックはソファから転がり落ち、ティムは窓へと駆け寄った。分厚いカーテンを力一杯引く。外からであるにも関わらず、耳元で叫ばれているような、そして窓ガラスがピリピリと震えてさえいるこの声量は――というか聞き覚えのあるこの声は、まさか、もしかして。
「ブルースー!!!」
夜の闇にも、いつの間にか降っていた雪にも負けず、外灯をスポットライトのように浴びながら、クラーク・ケントが叫んでいた。
「ブルー」
「喧しい!」
途中で遮るその声は、とティムは見えないと分かっていても顔を2階に上げた。何時の間にやら傍らに立っていたディックが窓を開く。2人に丸見えではないかと思ったが、外にいる方は丸見えでも全く問題なさそうなので、抗議するのは止めにした。一応はカーテンの陰に隠れておく。
見ればクラークはコートも着ていない。正体を示すタイツはシャツのボタンを閉めない所為で丸見えだ。どうやらくすんだ茶色の背広を「羽織った」だけらしい。いつもの黒縁眼鏡も付けず、しかしスーパーマンとも言えない程もつれた髪をして、男は2階テラスから身を乗り出しているであろうブルースに叫んでいる。
「何故会ってくれないんだ!ケイブの入り口も通行禁止になっていた!」
「自分のした事を良く考えてみるんだな、人の街に入り込んで好き放題するなど!」
「怒っているならせめて話くらいさせてくれ!」
「盛り上がって来たな」
「しっ」
実況しかねないディックの脇腹に肘を入れ、ティムは厳しく遮った。クラークはともかくブルースに聞こえてはまずい。時間はそろそろ次のパトロールへと追い立てている。自分達の声で思い出されては台無しだ。
彼のこれみよがしな溜息が聞こえたと思ったのは、ティムの錯覚だったろうか。踝あたりまで積雪に埋めながら、クラークは屋敷の主を仰ぎ見ている。その気になれば通行禁止だろうが何だろうが彼を止めないというのに、律儀に裁決を待つ姿に心打たれたのか、ブルースは驚異的な譲歩案を提示した。声ばかりは常と同様の居丈高さではあったが。
「そこまで言うなら入って来い!」
脇腹を押さえて蹲っていたディックがさっと顔を上げる。ヴィランのアジトに潜入する折さながらに、ティムは彼と力強く頷き合い、今度は廊下に面するドアへと走った。
なるべくそっとドアを開くと、細い隙間の向こうには既にクラークがいた。相変わらず機関車など目ではない速さで飛び込んだものだろう。それでも邸内の暖気は早々と腕を伸ばし、彼に積もっていた雪を水へと変えてしまう。濡れそぼった黒髪は生来の癖を取り戻し、額にかかる一房はSの形を描いていた。
何故彼が立ち止まっているのだろう、と思ってすぐティムは気付いた。2階へと通じる階段――豪奢な紅色の絨毯が織り成す道の手前で、クラークは先程のように上を向いている。そして当然ながら2階には、腕を組んだブルースが立っている。雲の柱めいた大理石の手すりに、そっと長身を寄り掛からせて、邸の主は冷ややかな無表情でクラークを見下ろしていた。
ティムはディックと本日何度目かのアイコンタクトを交わす。流石のディックも映画そっくりだという茶々は入れなかったが、目は十分にそう言っていた。
クラークの顎から滴り落ちたのは、雪解け水だったか、冷や汗か、はたまた涙か。目ばかりはブルースから逸らさないが、眉尻はすっかり下がっている。今の彼に匹敵するのは、雨の日にダンボール箱に入れられた小犬くらいなものだろう。だが、拾ってくれる心優しい人はいるのか、いないのか。
彼もティムもディックも固唾を呑んでいる内に、ブルースが1歩、また1歩と階段を下り始める。白い手すりに負けない程白い片手を滑らせて、片手は腰の後ろに回して、ゆっくりと、しかし獲物を追い詰める肉食獣めいた余裕すら漂わせながら。その無表情は1つ下りる度に、怒りにも悲しみにも軽蔑にも変わり兼ねない危うさだったが、ほんの少し後ずさったクラークの前に立つ頃になっても、矢張り無表情のままだった。
最後の3段目。腕を少し伸ばせば届く距離でブルースは歩を止め――腕を少し伸ばした。
泣き出しそうな顔のまま、クラークは両腕を伸ばす。
「ブルース……!」
上がった声は歓喜の歌よりも愛と喜びに満ちていた。
「良かったね、ってディック?何やってるんだよ?」
ほっと肩の力を抜いたティムは、傍らにいた筈のディックがいない事に気付く。みれば彼は、窓辺から外へと足を下ろし、今まさに外へと飛び出さんとしている所であった。しっかりと革のジャケットまで羽織っているディックは、悪びれもせず爽やかに微笑んだ。
「ちょっと野暮用を思い出したから帰るな!」
「は!?」
「アルフレッドにさ、俺の分もケーキ残しておくよう言っといて!待ってろよバブ!」
躊躇いなく飛び降りる身のこなしは、流石ヒーローと言うべき軽やかさであった。雪を踏む音は、革のジャケットと共に外灯の彼方へと消えて行く。玄関脇に置いてあるバイクでも使うつもりなのだろう。
「本当に喧嘩してたのか…って言うか本当に使う気なんだ……」
何となく疲れた気持ちで、ティムは再びドアの向こうへと目をやる。幸い、モノクロ映画時代なら放送禁止であったろう場面までは進んでいなかった。たっぷりと互いの目を見詰め合ってから、宙をさ迷っていた2人分の手が交差する。
片方は広い背中に回り、ぎゅっと力強く、もう片方を抱き締めた。
片方は矢張り同じくらい広い背中に回り、そっと密やかに、鉛製ケースの蓋を取り外した。
そしてティムは絶句した。
問答無用の緑色の光が煌くと思う間もなく、ブルースの胸元からクラークの頭が滑り落ちていく。しかし、がくりと崩れた膝が床に付く直前、ブルースは片腕で鋼鉄の男を支え、己が肩へと担ぎ上げた。犯罪者どもに振るわれる予定だった腕力は、ようやく活かし所を見つけたようである。
濡れて伸び切ったクラークを肩に。指輪入りケースを手に。階段を上がっていくブルースの横顔は、相変わらず何百年もそうであったと言わんばかりの無表情だが、ティムの辞書から「ご満悦」の一言を引き出すには十分だった。
勝者の階段を昇り切った邸の主は、品良く自室のドアを開き、失神したままの肩の荷物を放り込む。そのままドアの鍵を閉め「ティム、パトロールに行くぞ」とならない事は十分ティムも分かっていた。ブルースは自室の中へ入ってから、ドアを閉めた。
何とも言えない徒労感と共に、ティムはテレビを振り返った。画面に映っているのは相変わらずモノクロ映画だが、「THE END」の字が切ない白さで浮かび上がっている。ぼんやりとそれに視線を注ぎながら、ティムは軽く声を張った。
「アルフレッド?」
「はい、ただいま」
粉だらけのエプロンを着けたまま、ひょっこり姿を現した執事に、溜息を押し殺してティムは問う。
「さっきクラークが物凄い呼び鈴を鳴らしていたんだけど、どうして出て来なかったんだい?」
「主が自ら歓迎したいとのご意向に沿っただけでございます」
「…君は賢いよ」
「お褒め頂き光栄です、ティモシー様」
白い生地を頬に付けつつも、この上ない丁重さでアルフレッドはお辞儀する。普段は全く存在を主張したがらない彼だが、今日ばかりはクリスマスディナーの素敵な香りが漂っていた。先程のディックの言葉を思い出し、ティムはにっこりと微笑む。
「それと、ディックが用事で帰ってしまったんだ。自分のケーキは食べちゃって良いってさ。ご馳走も。全部。一欠けらも残さないでくれって。ブルースも同じ事を言っていたよ。忙しいらしいね」
「左様でございますか、残念な話です」
「勿体ないよね。ああ、あと電話を借りてもいい?」
「どうぞお使い下さいませ」
何かのソースで少し染まった手に、恭しく示された電話へとティムは歩み寄る。電話番号は知っていた。鼻歌とリズムを交えて押していく彼に、アルフレッドが首を傾げる。
「ご自宅でございますか?」
「ううん、それは後で。時計塔だよ」
電話線を弄びながら、ティムは答えた。開いたままの窓から見える外は、雪を通り越して吹雪に近付きつつあった。
「バーバラにさ。恋に狂ったマーロン・ブランドが行くから気を付けて、って」
コール音が止んだ。塔の上で監視している魔女さながらの、赤い髪を持つ姫君が応じる。
その遥か彼方から聞こえる男の声は、既に寒さと絶叫で嗄れていたが、それでもしっかりと彼女の名前を呼んでいた。
翌日、ウェイン邸からひとつ残らずアルフレッドの料理が消失した事件は、後に「クリスマスの悲劇」と呼ばれる事となる。
それ以後、ウェイン邸では2度と悲劇を繰り返さないよう、クリスマスシーズンの「欲望という名の電車」鑑賞禁止が取り決められたと言う。