「バットマンに口説かれた、と言ったらどうする？」
ハルの漏らした一言に、静寂の女神がウオッチタワーへと召喚された。
ただ女神の支配していた時は一瞬であった。ハルの横に座っていたオリバーがコーヒーを吹き上げ、監視モニターを操作していたクラークがマウスを握り潰した為である。勢い良く響いた2つの美しからぬ物音に、女神は早々と退散していった。
更に彼女を追い立てるのは、オリバーの咳き込みながら爆笑するという荒業と、クラークの前に広がるエラー音だ。
「ま、まさか、お前、大丈夫かよ！」
「本気だ」
「あれか。GLCの暦じゃ、今日がエイプリルフールか？」
「オリー！」
クラークは是非とも背後の会話に参戦したい所だった。しかし眼前のモニターが危険な青に点滅している以上、そちらを優先せねばならない。急いでパネル操作に切り替えようとしても、押そうとした手からマウスの欠片がばらばらと零れ落ちていく。その拍子にまた変な所を押してしまったらしい。青かったエラーが赤に変化した。かなり危険な兆候である。クラークは慌てふためいた。
「俺は真面目に言ってるんだぞ！ダチの相談なんだ、もっと真剣に受け止めろ！」
「ああ、うん、悪かった。でもなあ」
背後のクラークを放って会話は進められていく。この緑色した2人にとっては、クラークのドジなど日常茶飯事なのだ。対して闇夜の騎士が仲間――まあ仲間だ、一応――を口説こうとするなど、ハレー彗星以上の驚異的な事件である。
背中を丸めて必死になるクラークを横目に、オリバーは余裕たっぷりに髭を摘んだ。端が少しコーヒーで濡れているのはご愛嬌である。
「何せ相手があのバッツだ。もしかすると嫌がらせって可能性もあるぞ」
「だったらどんなに良かったか！」
「…一体全体どういう経緯でそうなっちまったんだ？」
「それがな」
ハルが俯き溜息を漏らす。褐色の髪がふわりと秀でた額に掛かった。マスクを付けていてもハンサムと分かる横顔に、オリバーはまさかなと首を捻り、クラークはエラー解除に追われながらやっぱり慌てた。
「事件を追っていたら調べて貰いたいデータがあって、ケイブに飛んで行ったんだよ。確かにいたんだが、運悪くと言うかな、コスチューム姿だけどマスクは取って素顔だった。しかもティータイムの真っ最中」
ブルースならば不機嫌になる状況だ、とタッチパネルからマウスの欠片を吹き落としつつクラークは思う。かの闇夜の騎士は自分のプライベートな姿を、同業者らに晒すのがお嫌いなのだ。同様の事をオリバーも思ったらしい。肩を竦めて彼は言った。
「とっとと帰れ、って言われなかったか？」
「言わない訳がないだろ、あのブルースだぜ？まあそこは俺も慣れているから、マスクを取って言ったんだよ。『素顔同士の方が話しやすいな』って。そうしたら諦めた」
これは素顔のクラークでは真似出来ない対応だ。少しばかり歯噛みしてしまう。しかし鋼鉄の男としてではなく、記者としての姿でならば応用出来るだろうか。そう思っていたらエラー音が激しさを増したので、再びクラークはパネル操作に齧り付いた。
「俺はブルースの隣で事件の説明をした。GLC絡みだから当然ちょっと長くなる」
「ああ、お前の自慢も含めたら当然だな」
「するかよ！…問題はここからなんだ。ブルースが、その、なんだ」
「ケツでも触ったのか？」
ハルは何も言わなかった。パワーリングからエメラルド色の拳骨が飛び出ただけである。己が頭部の4倍はある拳に、オリバーはすぐさま両手を振った。
「オーケイ。ソーリー。分かった。続けてくれ」
「次言ったらこいつが大活躍するからな。……ブルースが、俺を見つめていたんだ」
視線を落としてハルは呟く。どうにかエラー音を止められたクラークだったが、勢い余ってタッチパネルをも粉砕しそうになった。言葉を失ったのはオリバーも同じだったらしく、次の発言までしばらく時間が掛かった。
「……ま、まあ、バッツの人間観察は良くある事だろう？素顔で視線が分かりやすかった、ってだけかも」
「俺もそう思って聞いたよ、『どうかしたのか？』ってな。そうしたらあいつ、俺の目を見ながら何て言ったと思う？」
オリバーが拳を握り締める。クラークもまた、彼らに背を向けながら、固唾を呑んで身構えた。エラー音も消えたウオッチタワーには、先程の静寂の女神が意気揚々と戻って来たようだ。彼女に伴う重たい空気が3人のヒーローを押し潰す。
秀でた額に汗を滲ませ、常であれば歯切れ良い声音を殺しながら、ハルは囁いた。
「『お前の瞳はまるでエメラルドだな』」
「うおおおおおおお」
耳を両手で覆ってオリバーは叫ぶ。聞いた言葉を追い出すべく、頭をぶんぶん振りながら。JLA随一のタフガイがこれ程まで悶えていると知れば、彼の敵がスターシティから列をなしてやって来るだろう。
しかし盟友の、椅子から転げ落ちかねない恐慌にも手を緩めず、ハルは言い募った。
「『一点の斑も曇りもない、実に鮮やかだ』」
「止めろ今すぐ止めろ頼む俺が悪かった勘弁してくれええええ」
世界の終末を嘆く者でさえ、今のオリバーほどな悲痛の叫びは出来まい。余りな拒否反応にがったんがったんと頑丈な筈の椅子が喚く。ハルの指輪から飛び出した掌が、ちょいとそれを摘まんで落ち着かせた。彼自身の手もオリバーの襟首を掴み、現実を見ろといわんばかりに引き寄せる。
「俺だって勘弁してくれだ畜生！出来るならその場でブルースを気絶させてやりたかったさ！でも無理だったんだよ、怖過ぎて！」
「そ、それからどうしたんだ？」
「…それだけだ。俺もお茶を濁して、とっとと退散した」
白い手袋を嵌めた手が、ずるりとオリバーの襟から離れる。ひとつ溜息を吐くと、ハルは力無く椅子に体を預けた。悩める二枚目のその瞳には、確かにエメラルドを思わせる光が、しかし常よりは鈍く輝いている。オリバーもまた、彼につられて重たい溜息を吐いた。
「とにかく想像以上の衝撃をありがとうよ」
「俺はどうすれば良いんだ……。もうブルースの顔を見られない」
「見たら逃げ出すか吹き出すかだな。来週の監視シフトは変わってやるよ。ほとぼり冷めるまで会わない方が良い」
そう言ってオリバーはハルの背中を、子どもを宥めるように優しく叩いた。そして、さあ、と金色の顎鬚をドアへとしゃくる。
「ぼちぼち交代時間だ。今夜は飲むぞ。俺の奢りだ」
「オリー……！」
頼り甲斐のある親友の肩に腕を回し、ハルは頷いた。オリバーもにっと笑って頷き返す。いつもに比べて頬に翳りがあるのは、先程の衝撃がまだ癒え切れていない証拠だろう。それでも彼の笑顔はハルを支え、ブルースの言葉を些かなりとも薄めてくれる。
「行こうぜ。ああそれからクラーク。膝を抱えて宙に浮くのも、ヒートビジョンでモニター燃やすのも個人の自由だが、修理だけはきっちりな」
一体何からどう切り出せばいいのか。
バットケイブの入り口――と言っても数多い穴の1つだが――を前に、クラークはしきりに迷っていた。
とりあえず、壊れたモニターを予備に取り替え、シフトが終わるまでウオッチタワーで待機していた事は褒めていい。例えモニターの配線がいまひとつで黒い画面のままであったとしても、自分でも信じられない忍耐力だ。それでも交代に来たバリーが、「やあお待たせ、遅れてしまったかな？」の「やあ」で固まったあたり、滲み出るものはあったのだろう。ヒートビジョンはもう滲んでいなかったと思うが、それからバリーは手伝うとも言わずに、黙々と修繕に勤しむクラークを見ていた。ついでに隣室で何やら涙混じりに呟いているようだった。
しかし何よりそれをさせたのはブルースである。女性ならばいざ知らず、まず自分や男性陣には口説き文句のくの字も言わない、無愛想で鳴らしたブルースである。どんな気紛れかハル相手に率直な褒め言葉を囁いたブルースである。彼にこそ、責めがあってしかるべきだ。
心なしかこけた頬を夜風が弄る。ケープの裾が頼りなく揺れ、クラークは眉を寄せた。先日この入り口を通っていっただろう男は、こんなケープを持っていない。
そう思って苛々している自分に気付き、何だか情けなくなる。鋼鉄の男が話もしない内に神経過敏になるとは。まるで闇夜の騎士のように、と思うと、ようやく肩から緊張が抜けた。
耳を澄ませば奥底から、蝙蝠達の気配に混じり、確かな人間の鼓動が聞こえて来る。
「正々堂々と」
――当たって砕けろ、だ。
いつもに増してスピードの付いた空飛ぶ男に、入り口付近の蝙蝠が抗議の声を上げた。だが彼らに詫びもせずクラークは狭苦しい道を突っ切る。常人の瞬き3回ほどの間に、鋼鉄の男はバットケイブの中枢へと辿り着いていた。
幾らケイブの闇が濃いとは言え、クラークの目から逃れられるのは鉛くらいだ。薄青い光が油断なく眼下を探る。
しかしクラークは程なく首を傾げた。息遣いや鼓動は聞こえる。彼の気配は確かにあるというのに、ケイブのどこにも蝙蝠の王が見当たらないのだ。
「おかしいな、どこだ？」
「ここだ」
声と共に現れたのは、上下逆さまなブルースの顔。
次の瞬間、タイツ生地を引き裂くような悲鳴が洞窟に響き、蝙蝠達が迷惑げに羽根を打ち鳴らした。
「ぶ、ブル、ブルブルブル」
「寒いのか？」
「どこから出て来るんだ、君は！」
「空気口の調節中に来るお前が悪い」
青灰色の瞳は相変わらず冷たい。それでも少しばかり満足してしまうのは、ケイブにいる素顔のブルースは比較的珍しいからか。はたまた以前ここへやって来たエメラルドの男が、彼と素顔で会ったからか。
宙に立ち尽くすクラークを放って、ブルースはぐるりと軽業師のように半回転した。そのまま重力に従って落ちていく彼へ、伸ばした指先はお馴染みのワイヤーに触れる。手と舌打ちしたい衝動を引っ込めながら、クラークもまたケイブの硬い床へと着地する。
ほぼ同時に降り立ったブルースが、いつものようにコンピュータの前に陣取った。作業の為かTシャツにジーンズという寛いだ格好だが、悠々と長い脚を組む姿は、まさに玉座の王そのものだ。カンザス育ちの平民には一瞥も与えてくれない。
――出鼻を挫かれた。
ケイブ突入前の意気はあっと言う間に萎んだ。だがクラークとて、単に跪き慈悲を乞うような臣民ではない。どう切り出そうかとそっと傍らに立ち、モニターを覗き込んだところで、ぎゅっと顔を顰めた。
「…何だいこれは」
「ハルに探索を頼まれた『もの』だ。画像を探すのに苦労した」
ブルースの言葉に、クラークは画面に広がる真紫色の巨大イカを忘れた。どこでこんな画像を入手したんだ、だからそもそもこれは何なんだ、と聞く事も止めた。何気なさを装って椅子の背もたれに手を滑らせる。
「そう言えばウオッチタワーで言っていたよ。素顔を見せて『お願い』したと」
「自分の素顔がスター並みの価値だと思っているのか」
君は好きそうな顔だけど、と言うのをクラークは堪えて、いかにも外宇宙なイカを見つめていた。うっかり対応を間違えればどうなる事か。そんな事を考える自分が少し情けなくはあるが、これはご機嫌を損ねまいとする臣民の細心ではない、革命家の注意なのだ、と言い聞かせる。
「手厳しい批評だな。…瞳を褒められた、とも言っていたけど？」
「ああ」
極めて簡潔な肯定である。クラークの脳裏で民衆を扇動していた自由の女神が、王の強靭な盾を前にすごすごと旗を降ろす。革命は失敗した。しかし本気だったのかと思うと、嫉妬よりも先に湧き上がるのが、「ヴィランに感化されてどうかしてしまったのではないか」という懸念なのが我ながら意外であった。
何せ相手はベッドの中かそこへ行く前後でもなければ、睦言ひとつ口にしないブルースなのだ。減るものじゃないだろう、とクラークが抗議しても、「心が磨り減る」の一言で冷たく返した男。そのブルースが常日頃から、相性が悪いと言い合っているハルに、あの驚異的な文句を投げたのだ。
「感染源はあの道化師あたりか」
「ジョーカーがどうした？」
「いや、ただの独り言だ、気にしないでくれ」
そうか、とブルースは再び巨大イカに目を移す。よく直視出来るものだとクラークは感心しながら、誰に彼を診てもらうべきか考えていた。同業者の中では矢張り無難にワンダーウーマンあたりだろうか。彼女なら付き合いも長いから、現状の異常性をよく把握してくれるだろう。
「実際、見事だったからな」
「え？」
セミスキラで日光浴するバットマンという、悪夢に出てきそうな光景を思い描いていたクラークは、咄嗟に反応するのが遅れた。見るとブルースは眉ひとつ動かさず、クラークへと顔を向けている。
「虹彩の模様が対照なんだ。濃淡も絵に描いたようで極めて規則的だった。それにあの鉱物を思わせる緑色は、人体の色素ではまず出ない。素顔の時では見られなかったな。恐らくはグリーンランタン全員に通じるものなのだろう」
「…き、気付かなかった。素顔を見た事は何度もあるけど、マスクだけ取った姿はなかなかね」
ハルから聞いた詩的な表現など窺えようもない、サンプルの特徴を指摘する生物学者のような口振りだった。そう言えばブルースは科学者であり、探偵であり、猫よりも好奇心が強く凝り性なのである。蜘蛛の巣の如く張り巡らされた思考の糸に、たまたまハルの瞳が引っ掛かっただけなのだろう。もっと情の篭もった考えであれば、ブルースの口数ももっと少なくなる。
クラークは密かに安堵した。脳裏で自由の女神が王と手を結ぶ。
「何よりお前の瞳に良く似ていた」
ほっと息を吐きかけた矢先、見計らうようにそんな言葉が飛ぶ。
意味の理解出来ない刹那が過ぎると、頭の芯と頬がかっと燃え上がった。ブルースは変わらずクラークを見ている。正しくはクラークの瞳を、だ。気付くと同時に目を覆いたくなったが、そんな勿体無い事が出来よう筈もない。崩れる素振りも見せぬ王の無表情に、革命軍は一気に白旗を掲げ、自由の女神が膝をつこうとする。
「ブルース」
彼は本気だ。からかうつもりならもっと冷たい顔を見せるか、照れを滲ませる筈だ。彼の好奇心は自分故だ、と告白も同然の事に気付いていない。口説き文句を越え、殺し文句に発展したそれに酔いながら、クラークはどんどんブルースへの距離を縮めていった。
唇に触れる寸前、しかしふと、青灰色の瞳が笑う。
「そういう事にしておくから、モニターの修繕とバリーへの謝罪はきっちりしろ」
果たしてそれが彼一流の照れ隠しなのか、本当にバリーの「どうにかしてくれ！」という頼みに応えての嘘であったのか、クラークには良く分からない。
とりあえず前者の可能性に思い当たったのは、クラークが後者を信じ切り、泣きながらタワーで義務を果たしている最中であった。